「仙台宮城野原競馬場」の版間の差分

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明治時期の宮城県は、明治22年5月に仙台市の青葉神社門前の南東付近に[[仙台競馬場(堤町)]]が建設され明治28年頃まで競馬が開催されたり、[[花競馬]]と呼ばれる町興し・神社奉納等の草競馬が主に県北各所で開催されるなど競馬の文化が既に根付いていた。明治44年4月、時の皇太子(後の[[大正天皇]])東宮殿下が陸軍参謀本部旅行演習旅行演習を視察するにあたって宮城県に行啓した際、仙台産牛馬組合が台覧に供するため競馬を開催したのが、仙台宮城野原競馬場の始まりである。この競馬開催は賞金の交付が可能であった事、景品付投票券が発売されていた事などの観点から、宮城県公式競馬の原点と位置づけられる。尚、仙台宮城野原競馬場という呼称が正式名称であったかどうかは定かではないが、当時の宮城県内の公式競馬を開催していた宮城県産馬畜産組合(=仙台産牛馬組合)が遺した事績書「宮城県産馬要覧」には本競馬場は「仙台宮城野原競馬場」と記載されているので、本稿ではこの呼称を用いるものとする。
 
==明治44年4月の開催==
==明治44年4月の開催=東宮殿下の行啓とあって仙台は大きく湧きかえっていた。明治44年4月20日付[[河北新報]]によれば、「奉迎拝観者雲の如く、旭旗翻り歓声沸く」と報じられている。先にも述べたとおり東宮殿下の目的は陸軍参謀本部旅行演習旅行演習の視察であったが、その他にも知事との対談、小学校の運動会の台覧など多くの行事が予定されており、仙台宮城野原競馬場での競馬開催もその行事の中の一つであった。
開催者である仙台産牛馬組合は一週間程前より新聞掲載により出馬希望者を募っていた。その番組表は下記の通りである。