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[[File:福澤公園2.jpg|200px|right|thumb|福澤の邸宅が存在した台地<BR/>([[慶應義塾大学]]三田キャンパス内)]]
[[File:馬留石.jpg|200px|right|thumb|福澤が馬を繋いだと伝えられる馬留石]]
晩年は旅行や著作に多くの時間を費やし、旅行に出かける時は常に[[居合刀]]を携帯して、健康のために振った。自叙伝『[[福翁自伝]]』を記し始め、『[[時事新報]]』掲載の社説には[[明治政府]]の[[国家社会主義]]的な[[西洋化]]・[[近代化]]への批判(『[[民情一新]]』や明治維新以降のエセ文明より旧幕府のほうが良かったのではないかと言い切る等。)[[キリスト教]]を始めとした[[宗教]]批評「宗教の中には色々な宗派があるが、その違いは普通の茶と紅茶の違いぐらいであって、どちらを飲んでも大した違いはない」(1897年(明治30年)9月4日付「時事新報」社説)など多岐に及んだ。親友の[[木村芥舟]]と交遊しながら要人との会談も積極的に行い、[[木村浩吉 (海軍軍人)|木村浩吉]]([[木村喜毅]]芥舟の息子)の推薦で[[山本権兵衛]]軍務局長、[[後藤新平]]等、見込みのある人物との交流を行っている。また、旧幕人懇親会で福沢と同じく明治政府に出仕していなかった友人の[[栗本鋤雲]]が[[勝海舟]]に向かって「腰抜けは下がれ!」と大渇し、また『[[瘠我慢の説]]』の草稿をいち早く栗本に見せたため、内容が外部に漏れてしまうこととなったが、[[1901年]](明治34年)[[1月1日]]から時事新報に連載が開始された。晩年までに出版された著作は、現在の『[[学問]]』『[[科学]]』領域にある分野についてほとんどが言及されており、そのほとんどが日本で始めて著されているもので、出版されていない作品も多く、また当時の時勢・文化・歴史上の人物評等が得られる貴重な歴史資料ともなっている。
 
*1879年(明治12年):[[東京学士会院]](現・[[日本学士院]])初代会長就任。[[東京府会]]副議長に選出されるが辞退。『[[民情一新]]』刊。