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[[画像:Kondou Tyojiro.jpg|thumb|200px|近藤長次郎]]
[[画像:Kondo Chojiro Grave.jpg|thumb|180px200px|近藤長次郎の墓]]
 
'''近藤 長次郎'''(こんどう ちょうじろう、[[天保]]9年[[3月7日 (旧暦)|3月7日]]([[1838年]][[4月1日]]) - [[慶応]]2年[[1月14日 (旧暦)|1月14日]]([[1866年]][[2月28日]]))は[[幕末]]期の[[土佐藩]]出身の人物である。名を春宗。別名は'''上杉宋次郎'''、近藤昶次郎、梅花道人。
 
== 生涯 ==
[[高知城]]下の饅頭商人の息子として生まれ長次郎自身も饅頭を売り歩いていたため、はじめは[[苗]]がなく饅頭屋長次郎と呼ばれた。幼少期から聡明で土佐では[[河田小龍]]、[[江戸]]では[[安積艮斎]]らに学んだ。その才能を[[山内容堂]]にも認められて[[文久]]3年([[1863年]])に名字帯刀を許された上で、[[神戸海軍操練所]]に入った。[[岩崎弥太郎]]とは知己で、土佐を立つ際には餞別として刀を貰っている。同じく土佐藩出身である[[坂本龍馬]]とは仲が良く、龍馬と共に[[海援隊 (浪士結社)|海援隊]]の前身である[[亀山社中]]を設立した。また龍馬の命令で[[長州藩]]に赴き、小銃を売り渡している。このとき、長次郎は長州藩主の[[毛利敬親]]から謝礼の言葉を直々に頂いている。
 
そして長次郎は汽船・[[ユニオン号]]を購入したが、このときに長州藩とユニオン号の引渡し条件をめぐって諍いを起こしてしまう。しかし龍馬が仲介したため、長州藩は謝礼金を支払ったといわれている。
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長次郎は龍馬と同じく狭い日本にいるよりも世界に羽ばたく国際人になりたかったようであり、ユニオン号引渡しで長州藩から得た謝礼金をイギリス商人の[[トーマス・グラバー]]に渡した上でイギリス船に乗り込んでイギリスに留学しようとした。ところが天候悪化により出港が遅れたためにその計画が露見する。しかも長次郎は密かに亀山社中の資金を横流ししていた。このため、これらの罪により社中の隊士たちより切腹を言い渡されることになる。このとき切腹を命じたのは龍馬自身であったという説が一部にあるが、当時龍馬は薩長同盟締結のため京都に赴いていて長崎には不在であり、長次郎の切腹は、龍馬不在中に社中の隊士が決定したことである可能性が高い。享年29。
 
なお、龍馬の妻である[[楢崎龍|お龍]]は後に回顧録千里駒後日譚(せんりのこまごじつのはなし)の中で長次郎の訃報を聞いた龍馬が「己が居ったら殺しはせぬのぢゃった」とその死を悼んでいたという証言を残している。
 
[[葬儀]]は社中の者であげた。墓は皓台寺墓地内の幕末期砲術家[[高島秋帆]](幕末期砲術家)のの裏手(山側)にひっそりと建てられていたが、現在では[[大浦慶|大浦お慶]]とともに志士たちを援助した小曾根家の墓地内に移設されている。墓碑には、小曾根邸の離れの屋敷名をとって「梅花書屋氏墓」と記されている。筆跡は龍馬のものとされている。
 
龍馬は後に、「術数有り余って至誠足らず。上杉氏(長次郎の変名上杉宋次郎のこと)身を亡ぼす所以なり」と嘆いたという(「坂本龍馬手帖摘要」)。
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* [[大泉洋]]:『[[龍馬伝]]』(平成22年([[2010年]])、NHK大河ドラマ)
 
{{DEFAULTSORT:こんとう ちようしろう}}
[[Category:幕末土佐藩の人物]]
[[Category:海援隊の人物]]