「ゲオルク (ザクセン王)」の版間の差分

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| 配偶者1 = [[マリア・アナ・デ・ブラガンサ|マリア・アンナ・フォン・ポルトゥガル]]
| 子女 = マリー・ヨハンナ<br/>エリーザベト<br/>[[w:en:Princess Mathilde of Saxony|マティルデ]]<br/>[[フリードリヒ・アウグスト3世 (ザクセン王)|フリードリヒ・アウグスト3世]]<br/>[[マリア・ヨーゼファ・フォン・ザクセン|マリア・ヨーゼファ]]<br/>[[w:en:Prince Johann Georg of Saxony|ヨハン・ゲオルク]]<br/>[[w:de:Maximilian von Sachsen (1870–1951)|マクシミリアン]]<br/>アルベルト
| 王家 = [[ヴェッティン家]][[アルベルティン家|アルブレヒト系]]
| 王朝 =
| 王室歌 =
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| 母親 = [[アマーリエ・アウグステ・フォン・バイエルン]]
}}
'''ゲオルク'''({{lang|de|Georg}}、[[1832年]][[8月23日]] - [[1904年]][[10月15日]])は、[[ザクセン王国]]の第6代[[ザクセン君主一覧|国王]](在位:[[1902年]] - [[1904年]])。全名は''{{lang|de|Friedrich August Georg Ludwig Maximilian Karl Maria Nepomuk Baptist Xaver Cyriacus Romanus}}''。第4代ザクセン王[[ヨハン (ザクセン王)|ヨハン]]とその妃であった[[バイエルン|バイエルン]][[マクシミリアン1世 (バイエルン王)|マクシミリアン1世]]の王女[[アマーリエ・アウグステ・フォン・バイエルン|アマーリエ・アウグステ]](1801年 - 1877年)の三男で、[[アルベルト (ザクセン王)|アルベルト]]の弟。
 
[[1838年]][[8月8日]]にヨハンの第五子として[[ドレスデン]]で生まれる。[[1859年]][[5月11日]]に[[リスボン]]で[[ポルトガル]]君主一覧|ポルトガル女王]][[マリア2世 (ポルトガル女王)|マリア2世]]の王女[[マリア・アナ・デ・ブラガンサ|マリア・アナ]](1843年 - 1884年)と結婚した。彼女との間には[[マティルデ・フォン・ザクセン|マティルデ]](1863年 - 1933年)、[[フリードリヒ・アウグスト3世 (ザクセン王)|フリードリヒ・アウグスト3世]]、[[マリア・ヨーゼファ・フォン・ザクセン|マリア・ヨーゼファ]](1867年 - 1944年、[[オーストリア大公]][[オットー・フランツ・ヨーゼフ・フォン・エスターライヒ|オットー・フランツ・ヨーゼフ]]妃)、[[ヨハン・ゲオルク・フォン・ザクセン|ヨハン・ゲオルク]](1869年 - 1938年)ら四男四女が生まれた。
 
ゲオルクは陸軍に勤務し、[[1870年]]の[[普仏戦争]]にも従軍した。[[1888年]][[3月15日]]には[[元帥 (ドイツ)|陸軍元帥]]に任じられている。
 
[[1871年]][[1月18日]]に[[ヴェルサイユ宮殿]]で行なわれた[[プロイセン|プロイセン]][[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]の[[ドイツ国|ドイツ]]皇帝戴冠式には、王太子であった兄のアルベルトとともに列席した。
 
[[1873年]]に父ヨハンの死去によってアルブレヒトが王位に即いた。彼には子供がおらず次兄エルンストも夭逝していたためゲオルクが王太弟となり、アルベルトが[[1902年]]に死去すると70歳で王位を嗣いだ。しかしゲオルクも2年後にドレスデンの[[ピルニッツ宮殿]]で死去。王位は長男のフリードリヒ・アウグスト3世が嗣いだ。