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トレントの司教公支配は、多様な国家が周辺に割拠した[[ナポレオン]]時代まで続いた。1802年には[[帝国代表者会議主要決議]]のもと、司教座は政教分離され、トレントはハプスブルク家領に併合された。1805年の[[プレスブルク条約]]で、トレントは[[バイエルン王国]]へ割譲され、4年後の[[シェーンブルン条約]]で、トレントはナポレオンの傀儡国家[[イタリア王国 (1805年-1814年)|イタリア王国]]に与えられた。1814年にナポレオンが敗北すると、トレントはとうとう[[ハプスブルク君主国]]に併合され、ティロル州の一部となった。
 
続く斜陽のトレントは、行政の近代化、そして1859年に開通した初のアディジェ谷の鉄道を伴う経済の近代化とを経験した。19世紀後半、トレントと[[トリエステ]]は、どちらも民族的には[[イタリア人]]である人々が多数派を占めながら、オーストリアにいまだ属していた。そしてイタリア[[民族統一主義]]運動のイコンとなっていった。[[ベニト・ムッソリーニ]]は1908年に地元新聞のスタッフとしてまさにこの運動に加わっていた。愛国主義者はイタリアを[[第一次世界大戦]]へ導く原因をつくった。ダミアーノ・キエサとチェーザレ・バッティスティは、よく知られた地元の民族統一主義者で、イタリア軍に入隊して、トレント地域を新設されたイタリア王国へ統合させるべく[[オーストリア=ハンガリー帝国]]と戦った。彼らは近郊の南方前線で捕虜にされた。2人は重い反逆の罪で裁判にかけられ、ブオンコンシーリョ城の田園地帯で処刑された(チェーザレ・バッティスティはオーストリア軍によって処刑された)。彼らの死は感情的な強い抗議を引き起こし、のちにイタリア政府は『トレントの解放』を賞賛するのに利用した。トレント周辺は戦争の間大いに影響され、激烈な戦いのいくつかは周辺の山地で戦われた。
 
第一次世界大戦後、トレントとイタリア語が話される県は、[[ボルツァーノ]]及びアルプスの分水嶺の南部(ドイツ語話者が主)からなるティロルの一部とともに、イタリア王国へ併合された。