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[[748年]]、オーノルツバッハ川(後にアンスバッハ川と改名)とフレンキシェ・レーツァト川の間に[[ベネディクト会]]の[[修道院]]が創設された。その後、数世紀の間にこの修道院は発展し、その周辺の入植地を統合して都市を形作った。アンスバッハは[[1221年]]に初めて文献で言及されている。
この都市は[[1331年]]に[[ホーエンツォレルン家]]の統治下に入った。これ以後、30年間
ホーエンツォレルン家が[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]]の地位に昇った
[[画像:Ansbach.jpg|right|220px|thumb|18世紀のアンスバッハ・レジデンツの図面]]
[[1791年]]、最後のブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯[[カール・アレクサンダー (ブランデンブルク=アンスバッハ=バイロイト辺境伯)|カール・アレクサンダー]]は、終身年金と引き替えにアンスバッハ侯領
[[1796年]]に[[ツヴァイブリュッケン]]公で[[バイエルン大公|バイエルン選帝侯]]位継承候補者であった[[マクシミリアン1世 (バイエルン王)|マクシミリアン・ヨーゼフ]]は、ツヴァイブリュッケンがフランス軍に占領されると、アンスバッハに亡命宮廷を置いた。プロイセンは[[1795年]]の[[バーゼルの和約]]によりフランス革命政府との戦いから手を引いており、その中立は明らかであった。このためプロイセン統治下のアンスバッハは確実な避難場所であったのだ。この時、[[マクシミリアン・フォン・モンジュラ]]は、領土を失ったマクシミリアン・ヨーゼフ公に将来成すべきバイエルンの急進的な政治再編の包括的なコンセプトを講義した。[[1799年]]に遺産を受け継ぎバイエルン選帝侯マクシミリアン4世ヨーゼフ(1806年からはバイエルン国王マクシミリアン1世ヨーゼフ)として即位した彼は、モンジュラの提出した『アンスバッハ覚書』をバイエルンの国家を近代化するためのコンセプトの土台と位置づけた。
しだいに、ふくれあがる飲み水の供給が問題となり、[[1900年]]に25km離れたゲルスバッハから水を引く市の[[水道]]が設けられた。この水道は、[[1966年]]にシュラウアースバッハから引かれた2本目の水道とともに、現在でも市民の飲料水の98%を供給している。
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