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'''クルムバッハ''' (Kulmbach) は、[[ドイツ]] [[バイエルン州]] [[オーバーフランケン行政管区]]にある[[クルムバッハ郡]]に属する大規模郡都市であり、同郡の郡庁所在地である。
 
クルムバッハは[[バイロイト]]の北西、[[白マイン川]]沿いに位置している。この町は[[ビール]]と[[ソーセージ|焼きソーセージ]]、それにプラッセンブルク城で知られている。城内には世界最大の[[錫]]人形コレクションを誇る錫人形博物館がある。
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西暦900年頃には、現在のシュピーゲル地区に小さな集落があった。この地は[[林業]]の拠点であると同時に、[[マイン川]]渡河に対する防衛の前線拠点であった。この地は後にシュヴァインフルト伯の手に渡った。
 
クルムバッハの名は、[[1028年]]から[[1040年]]頃に書かれた[[アルクィン]]の[[聖書]]に「Kulma」として記載されており、これが最も古い史料である。この名前は、この地を流れ下る小川の名前 (Culmin(Culmin-aha, Culmna)Culmna)に由来する。しかし、この小川は、後に誤解から Kohlenbach(コーレンバッハ、炭の川)と改名されてしまった。
 
シュヴァインフルト伯家の断絶に伴い、クルムバッハは女性相続者ギーゼラによってディーセン=アンデヒス家のディーセン伯アーノルドのものとなった。ディーセン伯はさらにクルムバッハの周辺地域をも手に入れ、[[12世紀]]の前半に最初のプラッセンブルク要塞と現在「オベーレンシュタット(上の町)」と呼ばれている市場および教会を建設した。アンデヒス家は、[[1180年]]に[[神聖ローマ皇帝|皇帝]][[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]によって帝国[[諸侯]]に採り上げられ、[[ヴェネツィア]]と[[トリエステ]]の間に所領マラノ(現在の[[イタリア]]、[[ウーディネ県]]、Marano Lagunare)を与えられてメラニア公となった。[[1231年]]頃、クルムバッハは都市権を獲得した。現在ではその所在地が分からなくなってしまった古いプラッセンブルク要塞の代わりに、公爵は、クルムバッハにそびえるベルクシュポルン(シュポルン山)上に新しい城を建設した。最後のメラニエン公オットー2世が[[1248年]]に子供を遺さずに亡くなり、メラニア公爵家は断絶した。
[[image:Plassenburg oben.jpg|right|200px|thumb|プラッセンブルク城]]
長年にわたる相続争いの後、[[1260年]]、プラッセンブルク城主、すなわちクルムバッハの領主にテューリンゲンの[[オーラミュンデ伯]]が就いた。オーラミュンデ伯は新しいプラッセンブルク城を完成させ、ヒンメルクロン修道院を創設した。しかし最後にはこの城と町を借金の担保にしてしまった。[[1340年]]に最後のオーラミュンデ伯が亡くなると、クルムバッハとプラッセンブルク城は、契約により[[ホーエンツォレルン家]]一門の[[ニュルンベルク城伯]]のものとなった。この後[[17世紀]]まで、プラッセンブルク城は城伯の宮廷所在地、あるいは後にはホーエンツォレルン家の[[バイロイト侯領|クルムバッハ侯領]](ブランデンブルク=クルムバッハ侯領、[[1604年]]以降はブランデンブルク=バイロイト侯領ともいう)の首都であった。
 
[[バンベルク]]、[[ニュルンベルク]]、エーガー(現在の[[チェコ]]領[[ヘプ]])、[[ホーフ]]および[[ライプツィヒ]]を結ぶ古い[[通商路]]沿いという地の利からこの町は貿易が盛んで、織物、フスティアン織り、[[染色]]、絹[[刺繍]]などの[[ツンフト]]が形成された。土地、家、税などが記録された城伯家の目録から推計すると、[[1398年]]にはクルムバッハに1,500人から2,000人ほどの人口があった。領主の家宰、市長、有力市民から成る議会によって運営されていた。
 
[[1363年]]の侯爵特権および[[1415年]]の[[選帝侯|選帝権]]と[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク辺境領]]の付与を承けて、[[フランケン地方]]のホーエンツォレルン家支配地は「ブランデンブルク=クルムバッハ」と改名された。[[1411年]]から[[1529年]]までクルムバッハの家宰(フリードリヒ・ゼッセルマン、ジギスムント・ツェーラーおよびゼバスティアン・シュトゥプリンガー)は、ブランデンブルク辺境領の統治の最高位の地位を保った。
 
[[1430年]]1月31日には[[フス派|フス教徒]]が町に火をつけ略奪を行った。手ひどく破壊された町を復興するとき、ペテロ教会も[[ゴシック・リバイバル建築|ネオゴシック様式]]で再建され、敬虔[[アンスバッハ侯領|アンスバッハ辺境]][[ゲオルク (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)|ゲオルク]]([[アルブレヒト・アルキビアデス]]の叔父、後見人)の治下、[[1528年]]に福音派の礼拝が認められた。
 
辺境伯の成人して単独統治者となったアルブレヒト・アルキビアデス好戦伯は彼の支配下にある全フランケン所領を合併させフランケン公国を創設した。これにより、彼はバンベルクおよびヴュルツブルク司教を敵に回し、帝国都市ニュルンベルクも彼らと同盟して抵抗した。ブンデスシュテンディッシェン戦争または([[第二次辺境伯戦争]])と呼ばれるこの戦いで、[[1553年]]11月26日、クルムバッハはコンラディターク同盟軍(聖人[[コンラート・フォン・コンスタンツ]]にちなんで命名された)に占領され、略奪を受けた。[[1554年]]10月21日には、敵の占領に耐えてきたプラッセンブルク城も火災に巻き込まれ、破壊されてしまった。この戦いの様子は、錫人形博物館に[[ジオラマ]]で再現されている。
 
== 行政 ==