「ヨハン3世 (ニュルンベルク城伯)」の版間の差分

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'''ヨハン3世・フォン・ニュルンベルク'''('''Johann III. von Nürnberg'''、[[1369年]]頃 - [[1420年]][[6月11日]])は、[[ホーエンツォレルン家]]出身の[[ニュルンベルク城伯]](在位:1397:[[1397]] - 1420年)。ニュルンベルク城伯[[フリードリヒ5世 (ニュルンベルク城伯)|フリードリヒ5世]]と[[マイセン辺境伯]][[フリードリヒ2世 (マイセン辺境伯)|フリードリヒ2世]]の娘エリーザベトの長男。後に[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]]となる[[フリードリヒ1世 (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ6世]]の兄。
 
== 生涯 ==
[[1375年]]に[[神聖ローマ皇帝]][[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]の娘で、後に皇帝となる[[ヴェンツェル (神聖ローマ皇帝)|ヴェンツェル]]の異母妹、[[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]]の同母妹にあたるマルガレータと婚約した。[[1385年]]にフリードリヒ5世は息子たちに所領を分割統治させることを決め、両者の将来の土地分割に関するDispositio Fridericianaと呼ばれる協約を定めた。[[1396年]]には、ジギスムントとともに[[ブルガリア]]の[[ニコポリスの戦い]]に参戦し、彼の命を救う活躍をした。[[1397年]]に父が引退すると、その後数年は弟のフリードリヒ6世と共同で全所領を統治した。遅くとも[[1403年]]9月までには、父の定めた分割相続の規定が実行され、ヨハン3世はob dem Gebirg(山地の上)の領域を統治することとなり、その宮廷を[[クルムバッハ]]のプラッセンブルク城に構えた。
 
[[1390年]]以降、ヨハンは皇帝ヴェンツェルの最も親密な腹心の一人に数えられ、消沈した[[ルクセンブルク家]]に帝国の多くの仕事を持ち込み、活性化するよう試みた。しかし、[[1400年]]の皇帝ヴェンツェルの罷免を阻止することはできなかった。ヨハン3世は1420年6月11日に亡くなり、ハイルスブロン聖堂に最後の安息を見いだした。
 
マルガレータとの間には、[[1406年]]に[[ヴュルテンベルク君主一覧|ヴュルテンベルク伯]][[エーバーハルト3世 (ヴュルテンベルク)|バーハルト3世]]に嫁ぐことになる娘エリーザベトが生まれただけであった。この為、死後はフリードリヒ6世が単独で領土を相続、後にジギスムントから[[選帝侯]]に任命された。
 
== 参考文献 ==
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* [http://de.wikisource.org/wiki/ADB:Johann_III._%28Burggraf_von_N%C3%BCrnberg%29 Wikisource: ADB: Johann III. (Burggraf von Nürnberg)](In: Allgemeine Deutsche Biographie (ADB). Bd. 14, S. 275, ドイツ語)
 
{{先代次代|[[ニュルンベルク城伯]]|1397 - 1420|[[フリードリヒ5世 (ニュルンベルク城伯)|フリードリヒ5世]]|[[フリードリヒ1世 (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ6世]]<br /><small>1420年までは分割統治であった。</small>}}
{{先代次代|[[クルムバッハ侯領|ブランデンブルク=<br />クルムバッハ辺境伯]]|1398 - 1420|---新設|[[フリードリヒ1世 (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ6世]]}}
 
[[Category:ニュルンベルク城伯|よはん3]]