「ガブリエル・デ・ボルボーン」の版間の差分

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ガブリエルはカルロス3世の息子たちの中で最も賢く働き者だった。非常に教養が深く、[[ガイウス・サッルスティウス・クリスプス|サッルスティウス]]および[[ガイウス・マエケナス|マエケナス]]の古典著作の素晴らしいスペイン語翻訳を残したことで有名である。またガブリエルは音楽家[[アントニオ・ソレール]]の才能ある弟子でもあり、エル・エスコリアル教会で師のソレールと一緒に2つのオルガンを使ってコンサートを催したこともある。1771年には建築家[[フアン・デ・ビラヌエバ]]に命じて、[[エル・エスコリアル]]の敷地内に居館[[カシータ・デル・インファンテ]]を造らせた。
 
1785年、ガブリエルは従姉のポルトガル女王[[マリア1世 (ポルトガル女王)|マリア1世]]の娘[[マリア・アナ・ヴィトリア・デ・ブラガンサ|マリア・アナ・ヴィトリア]]と結婚し、間に3人の子供をもうけた。ガブリエルは妻子と一緒に居館カシータ・デル・インファンテで暮らしていたが、1788年11月2日、第三子カルロス・ホセを出産したばかりの妻ヴィトリア19歳の若さで急死し、嬰児のカルロス・ホセも母と死別して一週間後の9日に亡くなった。そして、ガブリエル自身も同月23日に俄かに[[天然痘]]に罹患して死んだ。親子3人の遺骸はエル・エスコリアルに埋葬された。父王カルロス3世は愛息子の死に大きな衝撃を受け、ガブリエルの死の翌月に世を去った。
 
ガブリエルと妻ヴィトリアの子供のうち長男[[ペドロ・カルロス・デ・ボルボーン|ペドロ・カルロス]]だけが生き延びたが、ペドロ・カルロスはポルトガルの母方の祖母のもとに引き取られて養育され、後にポルトガル王子の称号をも与えられた。