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== 略歴 ==
[[船橋市立船橋高等学校|市立船橋高校]]3年次の[[全国高等学校サッカー選手権大会|全国高校サッカー選手権]]でベスト4進出に貢献。抜群の身体能力を買われて飛び級で[[オリンピックサッカー日本代表選手|バルセロナ五輪予選日本代表]]に選出、1992年1月のアジア最終予選に出場した。高校在学中に五輪選抜は初の出来事で当時の話題をさらった。卒業後、[[横浜フリューゲルス]]に入団。[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]草創期のフリューゲルスを支える。当時の監督、[[加茂周]]がめざす[[ゾーンプレス]]をダブルボランチの相方[[山口素弘]]と体現。[[エドゥ]]、[[モネール]]、[[前園真聖]]らタレントと共に活躍した。1993年、第73回[[天皇杯全日本サッカー選手権大会]]優勝メンバー。
 
 
1994年にはアトランタ五輪代表候補に選出され、前回バルセロナ五輪予選経験者として当初は主将を務め守備の中心選手として期待されていたが、規定により前回予選出場者の参加を認められなくなった為、この年を最後に代表からは外れている。
 
後に[[ヴィッセル神戸]]、[[佐川急便東京サッカー部|佐川急便東京フリエFC(後の佐川東京SC)]]、[[横浜FC]]、[[ソニー仙台FC]](佐川東京は社員契約。ヴィッセルと横浜FCとソニー仙台はプロ契約)と渡り歩き[[2006年]]、[[静岡FC]]([[東海社会人リーグ|東海社会人リーグ1部]])の選手兼監督に就任した。
その年(2006年)の天皇杯には静岡県代表として出場。J2の[[水戸ホーリーホック]]等を破り4回戦まで勝ち上がるも、[[浦和レッドダイヤモンズ]]の厚い壁に阻まれ敗退となった。
以降、各方面の指導者として活躍。
 
妻は[[高田理英子]](芸名 川上理英子)。オールナイトフジリターンズで[[神田うの]]と共にメイン司会を務めた。