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佐竹義李は御家人に列せられ、佐竹秀義の所領が頼朝の家人たちに与えられた。新たな占領地を得たことによる御家人たちへの恩賞、地理的には現に[[鬼怒川]]水系と[[香取海]]を支配して更に北の[[奥州藤原氏]]と提携の可能性があり、関東に残る平氏方最大勢力であった[[佐竹氏]]を屈服させた事は、関東を基盤とした頼朝政権確立の上で重要な位置を占める戦いであった。
 
しかし、頼朝は関東の諸豪族に対しては一旦帰服を促す使者を派遣した上で対応を決定しているのに対して、佐竹氏に対してはそうした動きが確認できないことから、この戦いは[[相馬御厨]]や香取海沿岸の帰属問題で[[佐竹義宗]]や[[片岡常春]]と対立関係にあった上総広常・千葉常胤などの[[房総平氏]]および同一族と婚姻関係にある三浦義澄が房総地域から佐竹氏勢力を排除するために頼朝に攻撃を要求したとする学説もある<ref>岡田清一「佐竹合戦と侍所の創設」</ref>。また、『延慶本平家物語』によると治承5年の春に佐竹隆義が頼朝と戦った記載があったり、『玉葉』の治承5年4月21日条に浮説ながら佐竹氏が常陸国で頼朝と敵対したとの記載がある。また佐竹氏の存在が奥州藤原氏と共に頼朝の上洛拒否の理由とされた。以上のようなことから、この金砂城の戦いのみで佐竹氏を屈服させたわけではなく、治承寿永の乱の後期まで佐竹氏は常陸国において頼朝に対して敵対的な行動を取り続けたとみる学説もある<ref>金沢正大「治承・寿永大乱に於ける佐竹源氏」</ref>。
 
11月7日に頼朝は常陸国府で叔父の[[源義広 (志田三郎先生)|志田義広]]、[[源行家|新宮行家]]と対面しているが、この二人はのちに[[源義仲]]の元に走り、頼朝・義仲対立の火種を生む事になる。