「土屋耕一」の版間の差分

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Resto1578 (会話 | 投稿記録)
脚注で資生堂宣伝文化部在籍時に他社の広告を手掛けていたことについて記載を追加。
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話し言葉の持つ特性を生かし、その時々の空気を反映した軽妙かつ洒脱な文章を書くことで知られた。元々母親が小唄の師匠だったことや、幼少期から寄席などに通うなどしていたこともあり、特に[[回文]]<ref>これらの広告に使われた回文で、代表的なものに、「故郷より来た器量よき娘(コ)」や、「酢豚つくりモリモリ食ったブス」、「黒し雲 鐘はヨハネか 黙示録」などがある。</ref>はその卓越したセンスを[[1980年代]]に新聞で掲載された[[紀文食品|紀文]]や[[明治製菓]]などの3ベタ広告などで披露していたことで知られる。のちに前出で後年の伊藤園の「おーいお茶」の川柳選者を長年に渡ってつとめていたのは、こうした影響によるものと言えよう。
 
コピーについては、句読点の使い方にこだわりを持っていたことで知られ、余程のことがない限り、感嘆符・疑問符の使用が殆ど無かったことでもその名を知られた。また文字面を視覚的にイメージさせるという思考の持ち主でもあった。これは土屋が最初に入社した資生堂宣伝文化部<ref>土屋は1956年に、資生堂宣伝文化部に入社したが、当時まだ各企業では、宣伝広報に対するシステムがキチンと定着していない頃で、また広告代理店のクリエイティブ部門も十分な力を持っておらず、資生堂宣伝文化部在籍時には、当時[[日本デザインセンター]]の主任デザイナーだった[[山城隆一]]に呼ばれて、[[東芝]]や[[メルシャン|三楽ウイスキー]]などの広告でコピーを書いたりしていたことがある。</ref>、担当していたのは資生堂の製品の広告ばかりではなく、では、山名文夫・水野卓史らのデザイナーが広告制作の主導権を握っていたことで、土屋がコピーを考え出す前に、山名らが広告のラフを創り上げ、空いた場所に「句読点含めて何文字以内におさめるようにキャッチフレーズを作成せよ」というデザイン先導の広告クリエイティヴで培ったセンスによるものである。
 
==その他==
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== 脚注 ==
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