「本所 (墨田区)」の版間の差分

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[[江戸時代]]にこの地区と周辺は、[[深川 (江東区)|深川]]と並んで、拡大する大都市[[江戸]]の新興住宅地域の一角となった。本所の宅地化が進んだのは[[元禄]]年間のことだが、それでもまだ当時は町外れの辺鄙な土地だった。この頃本所に住んでいた人物に[[元禄赤穂事件|赤穂浪士の討ち入り]]で有名な[[吉良義央|吉良上野介]]がいるが、彼も「江戸のはずれに追い出された」といった愚痴を綴った私信を残している。幕末には[[江川太郎左衛門]]の屋敷があった。
 
明治に入り、この地区を中心とする区のした地前に「本所」採用された。この[[本所区]]」となった。立地の良さから明治時代に1947年徐々工業地帯化が進む。大正12年 (1923) の[[向島区関東大震災]]と合併して現在の墨田では本所となるの9割が焼失、約4万8千人もの死者を出した
 
[[戦後]]になって本所区は、昭和22年 (1947) に[[向島区]]と合併して現在の墨田区となった。
立地の良さから明治時代には徐々に工業地帯化が進む。1923年の[[関東大震災]]では本所区の9割が焼失、約48,000人もの死者を出した。
 
==関連項目==