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茴香 (会話 | 投稿記録)
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=== 一ノ谷の戦い・討死? ===
寿永3年(1184年)2月4日、義仲を滅ぼした範頼・義経が福原攻略に進発した。平家は福原周辺に防御陣を敷き、教経は兄の通盛とともに山の手を守った。通盛が妻を呼び寄せて別れを惜しもうとすると、教経は「ここはこの教経が差し向けられる程の最も危険な戦場ですぞ。そのような心がけでは、ものの役に立ちますまいに」とたしなめている。
 
結局、2月7日に行われたこの一ノ谷の戦いで平家は致命的な大敗を喫して、一門の多くを失った。兄の通盛はここで討ち死にしている。『吾妻鏡』では、教経もこの戦いで安田義定の軍に討たれたとあり、同月13日に討ち取られた他の一門の首とともに京で獄門にされたとある。