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人物像
人物像
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==略年譜==
*[[明治]]41年([[1908年]])
:7月29日 - [[鳥取県]][[八頭郡]][[大御門村]]大字殿(旧[[郡家町]]、現[[八頭町]])に[[農業]]・[[石破市造]]、マサの次男として生まれる 
*[[大正]]10年([[1921年]])
:3月 - 殿尋常高等小学校尋常科卒業
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== 人物像 ==
以下は『<small>回想録</small> 石破二朗 <small>追想篇</small>』より抜粋
 
==== 人柄・性格 ====
清貧と努力の人である<ref>『<small>回想録</small> 石破二朗 <small>追想篇</small>』 14頁</ref>。
 
農本思想の持ち主である<ref>『<small>回想録</small> 石破二朗 <small>追想篇</small>』 14-15頁</ref>。
 
[[儒教]]精神を尚ぶ。[[東京]]生活中毎週末帰省、病弱中の夫人を見舞い、故郷の[[神社]]参詣、父祖の墓参りを欠かしたことはなかった。参院選の時、「私は[[鳥取県]]の人間である。鳥取に住み、鳥取に[[墓]]をつくる」と述べた<ref>『<small>回想録</small> 石破二朗 <small>追想篇</small>』 15頁</ref>。
 
故郷を忘れず義と理に厚い<ref>『<small>回想録</small> 石破二朗 <small>追想篇</small>』 15-16頁</ref>。
 
古[[武士]]的性格である<ref>『<small>回想録</small> 石破二朗 <small>追想篇</small>』 16頁</ref>。
 
元[[衆議院議員]]の[[山本幸雄]]は「石破さんといえば、われわれ旧[[内務省 (日本)|内務省]]の後輩では“こわい人”で通っていた。(中略)めったなことに笑わない、いつも[[あご]]を引いてきびしい表情で真実を探求せずばやまないといった感じを受けた…」と述べている<ref>『<small>回想録</small> 石破二朗 <small>追想篇</small>』 613-614頁</ref>。
 
[[太宰治]]、[[永井荷風]]の著作物を好む<ref>『<small>回想録</small> 石破二朗 <small>追想篇</small>』 670頁</ref>。
 
秘書をつとめていた高岩迪資によると、長男[[石破茂|茂]]が誕生した際、二朗は「年寄り子で恥ずかしい」といって[[病院]]に行きたがらなかった。そこで高岩が代理として用足しに出掛ける。このため病院側では、高岩が[[石破茂|茂]]の父親かと間違えることが何度かあったという。<ref>『<small>回想録</small> 石破二朗 <small>追想篇</small>』 171頁</ref>
 
[[宗教]]は[[浄土宗]]。
 
==== 交友関係 ====
政治家[[田中角栄]]に心酔していた(元[[首相]])は友人である。[[安田貞栄]][[境港市]]長(第3代)が石破に「貴方は元気である限り本県県政を担当願うことが県民のためになると思う。それ程貴方を高くかっておるが東京では[[田中派]]に属しておることが釈然としませんね」と言った時「君は田中という人を知らんからだ。実は自分が初めて鳥取県知事に立候補して現職知事との一騎打ちのきびしい選挙を戦い当落の決まる夜娘2人が東京の家で[[ラジオ]]の報道をはらはらした心持ちで聞いておるときに田中さんは心配だろうと娘たちと一緒に[[炬燵]]にあたって一喜一憂してくれたのだ。当選がきまったら「これでお二人とも安心だね」と言って帰ったそうだ。これに心を打たれるではないか。付け焼刃でできることではない」と述べた<ref>『<small>回想録</small> 石破二朗 <small>追想篇</small>』 545-546頁</ref>。
 
[[昭和]]30年([[1955年]])、友人の[[田中角栄]]から[[東京都知事選挙]]に出馬するように請われたが、「[[東京都知事]]にはならない、鳥取県知事に請われればなる意志がある。」と答えた。角栄は「何故日本で一番小さい鳥取県の知事を望むのだ。」と尋ねると「私は[[鳥取県]]人である、鳥取に生まれ育ち、そして死ぬのである。小さくとも我が県は[[鳥取県]]である。」と明快に答えた。角栄は「君が[[故郷|郷土]]を思う至情に打たれた。」と述べている<ref>『<small>回想録</small> 石破二朗 <small>追想篇</small>』 697頁</ref>。
 
== 栄典 ==