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'''スレイヤー'''('''SLAYER''')は[[1981年]]に結成された[[アメリカ合衆国]]の[[ヘヴィメタル]][[バンド (音楽)|バンド]]である。[[メタリカ]]、[[メガデス (バンド)|メガデス]]、[[アンスラックス]]らのバンドと共に「BIG 4(スラッシュメタル四天王)」の1つとされ、他の三者が音楽性を大きく変えた後もスラッシュ・メタルのスタンスにのっとった活動を続けている。[[1986年]]にリリースされたアルバム『Reign in Blood - レイン・イン・ブラッド -』は英国[[ケラング!]]誌に'''''"the heaviest album of all time by Kerrang!"'''''と評された<ref>[http://kerrang.typepad.com/kerrang_awards_2006_blog/2006/08/kerrang_hall_of.html Kerrang! Awards]</ref>。
 
歌詞やアルバムのジャケットに用いられる、死、自殺、精神異常、死体、サタニズム、連続殺人犯、戦争などといったテーマがしばしばアルバムの発売禁止及び延期、訴訟等をもたらし、後述の通りの非難を受けたこともある。80年代には[['''PMRC]]'''らの標的にもなった<!--(これは彼らに限った話ではないが)-->。
 
1983年のデビュー時から2枚のライブアルバム、一つのボックスセット、3枚のDVD、一つのVHS、2枚のEP、10枚のフルアルバムをリリースし、4枚のゴールドディスクを獲得している。[[グラミー賞]]には3回ノミネートされ、2007年には『Eyes of the Insane』が、2008年には『Final Six』が最優秀メタル・パフォーマンスに選ばれた。『[[オズフェスト]]』や『UNHOLY ALLIANCE TOUR』などの世界ツアーでは[[ヘッドライナー]]を務める。
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*[[ロサンゼルス]]にある「Woodstock Club」にてヘビーメタルバンド「Bitch」の前座としてライブで演奏(全8曲、その内6曲はカヴァー)した際、[[アイアン・メイデン]]の「Phantom of the Opera」をプレイする姿を見たアメリカの名門メタルレーベル「[[メタル・ブレイド・レコーズ]]」の創設者「ブライアン・スレイゲル(Brian Slagel)」に見出される。その後バックステージで両者は出会い、BrianはSlayerに作曲を要請しバンドはそれを承諾した。
*[[1983年]]、その[[メタル・ブレイド・レコーズ]]による[[コンピレーション]]アルバムの第三弾『メタル・マサカー3 - ''METAL MASSACRE 3'' - 』(詳細は→[[メタル・ブレイド・レコーズ]])に曲「Aggressive Perfector - アグレッシブ・パーフェクター」を提供、このレーベルと契約した。
*同年[[12月]]にデビュー・アルバム『'''ショウ・ノー・マーシー - ''SHOW NO MERCY'' -''' 』を発表。バンドには資金が無かった為、自分達で製作費用を出した(Tomは自分の稼ぎを充て、Kerryは父から金を借りた)。おかげで何とかメンバーはこの年の11月にスタジオ入りすることができた。リリースを急ぎ、収録曲が完成してから三週間で店に置かれた。
*[[1984年]]には、アルバムのプロモーションを兼ねてライブツアーを行った。ツアーと言っても国内のクラブを回るもので、Tomの所有する[[カマロ]]で[[U-ホール]]から借りた[[トレーラー]]を引きながらの移動であった。このライブのおかげでバンドは知名度を上げ、アルバムはアメリカだけでも2万枚、国外でも2万枚以上の売り上げを記録する。
*同年[[10月]]、3曲入り[[レコード#レコードの諸形態|EP]]『'''ホーンティング・ザ・チャペル - ''HAUNTING THE CHAPEL'' -''' 』を発表。アルバムの幕開けとなる「'''ケミカル・ウォーフェアー - ''Chemical Warfare'' -''' 」はバンドの定番の曲となった。アルバムリリース後、Slayerはバンド「[[UFO (バンド)|UFO]]」の前座として、ライブ「Heavy Sounds Festival」においてヨーロッパデビューを果たす。アメリカに戻ってからは、ツアー「Haunting the West」を開始。
*このツアーの後、Kerryは「'''[[デイヴ・ムステイン]](Dave Mustain)'''」の新しいバンド「'''[[メガデス (バンド)|メガデス]](MEGADETH)'''」に加入する為に一時バンドを離れている。Jeffはこれに関して「新しいギタリストを探そうか考えていた」と語っている。DaveはKerryにメンバーになるよう要求したが、結局彼はSlayerに戻った。この時「(MEGADETHは)俺の時間を大いに取った」と発言しており、両者の間には亀裂が出来、後に2つのバンドの長き争いへと発展する。その後バンドは「[[ヴェノム]]」や「[[エクソダス]]」と共に「Combat Tour」を開始、ライブアルバム『'''Live Undead'''』をリリース。
*[[1985年]]、初のライブ映像となる『'''Combat Tour:The Ultimate Revenje'''』をリリース。[[ヴェノム]]らと共にニューヨークの「Studio 54」にて出演したライブが取り上げられた。またこの年にはアルバム『SHOW NO MERCY』の売り上げが4万枚を突破、バンドは2枚目のスタジオアルバムを製作することが出来ることになる。メタル・ブレイドは製作費用をバンドに与え、今回の収録にはプロデューサーの「Ron fair」を雇うことができた。
*同年[[9月]]、2ndアルバム『'''ヘル・アウェイツ - ''HELL AWAITS'' -''' 』を発表。
*アルバム『Hell Awaits』が成功したあと、バンドはメジャー・レーベル[[デフ・ジャム]]からオファーを受ける。ベテランのプロデューサー、多額の制作費を約束し、移籍。良いプロダクションを迎え、より速く・短い曲を作るよう急激なイメージチェンジをさせられるも、結局複雑な編曲に演奏時間の長い曲を作るに至った
*[[1986年]]、『'''[[レイン・イン・ブラッド]] - REIGN IN BLOOD -''' 』を制作するが、「歌詞が過激過ぎる([[ナチス]]の虐殺者[[ヨゼフ・メンゲレ]]について歌った『[[エンジェル・オブ・デス]]』が特に問題視された模様)」という理由から、[[コロムビア・レコード]]がアメリカ国内の配給を拒否<ref>『レイン・イン・ブラッド(日本盤)』におけるライナーノーツ(1995年1月24日 有島博志 記)より。</ref>。その後、当時ワーナーグループ傘下だった[[ゲフィン・レコード]]からの配給が決定、無事発売(しかし議論の結果このレコード会社のリリース表にはこのアルバムの名は記載されていない)され、ラジオでのエアプレイが無かったにも関わらず[[ビルボード]]誌のアルバム・チャートで最高50位台を記録する。なお、イギリスでは、WEAが発売を拒否したため、ロンドンレコードから発売された。
*同年[[10月]]、Slayerはワールドツアー「Reign in Pain」を「[[オーバーキル]]」や「Malice」と共に開始。またバンド「[[W.A.S.P.]]」のツアーにおいてオープニングを務めることも決定するが、その後1ヵ月も経たないうちにドラマーのDaveが「家庭生活を優先したい」とし脱退。ツアーを続ける為に元「[[ウィップラッシュ]]」の「Tony Scaglione」が参加するが、翌年には妻の説得によりDaveが復帰。
*[[1987年]]、[[コロムビア・レコード]]の創設者、「Rick Rubin([[リック・ルービン]])」の強い主張によって、映画「Less Than Zero」のサウンドトラックの為にバンド「[[アイアン・バタフライ]]」の代表曲『In-A-Gadda-Da-Vida』のカヴァーを収録。バンドはこれを快く思わなかたがておらず、Jeffは「可愛そうなSlayerの演出」と考えており、Kerryは「[[糞]]の塊」と言っている。ちなみに、この歌はラジオで流されたSlayerの最初の曲の1つである。
*[[1988年]]、『'''サウス・オブ・ヘヴン - ''SOUTH OF HEAVEN'' -''' 』を発表。製作する際、前作の『Reign in Blood』から一転、あえて曲の[[テンポ]]を下げ、メロディアスな歌唱を取り入れることを決める。これに関してJeffは「『Reign in Blood』を越えることができないのは分かっていた。だから曲のスピードを落としたんだ。リリースしたアルバムが皆『Reign~』と比べられることが分かっていたからね。奇妙なことだった。この前にも後にも、こんなことは無いよ」と語っている。またこのことはファンや評論家から様々な反響を呼んだが、アルバムは当時最も商業的に成功し、[[ビルボード]]チャートで初登場57位(200位中)を記録、また彼等の2枚目のゴールドディスク授賞作品となった。アルバムに対する評価は色々で、「[[Allmusic]]」は「混沌としており力強い」と評価する一方、雑誌「ローリング・ストーン」の「Kim Nelly」は「純粋で攻撃的な悪魔の鼻水」と呼んでいる。Kerryは「最も活気の無いアルバムだ」と評しているがTomは「後に人へと成長する遅咲きの花だ」と言っている。
*同年[[8月12日]]、[[ロサンゼルス]]のハリウッド・パラディウムでの公演と[[8月31日]]・[[ニューヨーク]]のフェルト・フォーラムでの公演において、プロモーターがチケットを売り過ぎた事が原因で観客の暴動が発生。同会場での演奏が禁止される。
*[[1990年]]に『シーズンズ・イン・ジ・アビス - ''SEASONS IN THE ABYSS'' - 』を発表。『クラッシュ・オブ・ザ・タイタンズ』ツアー(第一弾はスレイヤー、メガデス、[[テスタメント (バンド)|テスタメント]]、[[スイサイダル・テンデンシーズ]]というラインナップでの1990年の[[ヨーロッパ]]ツアー、第二弾はスレイヤー、メガデス、アンスラックス、[[アリス・イン・チェインズ]]というラインナップでの1991年全米ツアー)を実施。ビルボード誌の総合チャートで40位内にランクイン。