「ギリシャ第一共和政」の版間の差分

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カポディストリアスの死後、弟のアウグスティノス、軍事指導者コロコトロニス、政治家コレッティスらにより暫定統治委員会が形成されたが<ref name="G287"/>、内部対立が生じ、これは内戦へ至ることとなった。1832年春、コレッティスの攻撃により、アクグスティノスは委員会から離脱、さらにコロコトロニスは敗北した。これらの勝利をうけてコレッティスは7月、プロニアで議会を召集、憲法制定を画策したが、列強三国はこれを認めなかった。そのため、コレッティスの部隊は議会を襲撃、再びギリシャには不穏な空気が流れることとなったが、これはフランス軍が鎮圧した<ref name="G288">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.288]].</ref>。
 
その頃、列強三国はオスマン・トルコ帝国大宰相府(中央政府のこと)で長時間にわたる議論の末、国境を制定、さらに世襲制の君主を抱く王国化することを決定、その王にイギリス、フランス、ロシア、いずれとも直接の系譜につながらないヨーロッパの王族が選ばれることとなった<ref name="R38"/>。
 
その頃、列強三国とバイエルン政府は1832年5月7日、条約に調印、ウィッテルスバッハ家のオットー(ギリシャ名[[オソン1世]])がギリシャの王となることが決定され、ギリシャは列強三国の『保護国』として独立することとなったが、あるイギリス人はこれを『独立なんぞお笑い種』と表した<ref name="G289">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.289]].</ref>{{#tag:ref|イギリスの駐ギリシャ大使サー・エドマンド・ライアンズによる『本当に独立したギリシャなぞ馬鹿げたものだ。ギリシャはイギリスでもロシアでもあって、ギリシャがロシアであることが許されない限り、イギリスでなければならぬ<ref name="R62">[[#クロッグ(ギリシャの歴史)|リチャード・クロッグ、(2004)p.62]].</ref>。|group=#}}。