「海江田信義」の版間の差分

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=== 大久保との関係 ===
大久保は海江田の才能を高く評価し、弾正台辞職後の海江田を訪れ復帰を強く勧めている。やがて海江田が奈良県知事に任ぜられると、大久保は自宅に招き祝宴を張った。そのとき「規模恢廓」(事を為すには広い度量が必要の意)の文字を揮毫し「貴公は忍耐不足をなくし、広い度量を持て。」と切々と説いた。海江田はこれを徳とし、のち、大久保暗殺の報を聞くと「ああ。何という狂漢か。我が明治政府の柱石を害す。何の怨恨あってかくの如き凶暴を加えたるか。」と嘆いた。
 
=== 生麦事件 ===
リチャードソンにとどめを刺したのが海江田とされているが、当時の目撃者の話では茶屋の前に駕籠が置かれ、武士が駕籠の中の人物と相談の上、瀕死のリチャードソンに数名の武士がとどめを刺したとある。その後の[[薩英戦争]]では海江田は久光の命を受けて[[奈良原喜左衛門]]らとともに、旗艦ユーリアラス号の乗組員を惨殺して船を奪いに乗船したが帰還命令が出て未遂に終わっている。
 
== 参考文献 ==