「ゲオルギオス1世 (ギリシャ王)」の版間の差分

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ヴェニゼロスとゲオルギオス1世は、希土戦争での惨敗による損害を修復するべく、より強い軍隊を保持する必要があるという点で一致していた。コンスタンティノス王太子は、陸軍の監察官として復帰し、後に最高司令官となった。王太子とヴェニゼロスの厳密な監督の下、ギリシャ軍はイギリスとフランスの援助によって再訓練を受けて武装し、海軍には新しい艦船が注文された。その一方で、ヴェニゼロスは外交手段によって、当時弱体化していたオスマン帝国に対抗するべく、バルカン半島のキリスト教諸国との連携を強化し、[[バルカン同盟]]を結ぶに至った。
 
[[1912年]][[10月8日]]に、[[モンテネグロ王国|モンテネグロ]]がオスマン帝国に宣戦布告をすると、[[セルビア王国_(近代)|セルビア]]・[[ブルガリア王国_(近代)|ブルガリア]]・ギリシャが連名で[[最後通牒]]を送付してこれに合流し、[[第一次バルカン戦争]]が勃発した。結果は、バルカン同盟側の勝利に終わり、厳しい訓練を経た総勢200,000名のギリシャ軍は、連戦連勝した。1912年[[11月9日]]に、ギリシャ軍はブルガリア軍より数時間早く[[テッサロニキ]]に到着した。その数日後に行われたパレードで、ゲオルギオス1世はコンスタンティノス王太子とヴェニゼロスが付き従うなか、ギリシャで第二の都市となったテッサロニキに意気揚々と乗り込んだ。
[[ファイル:GeorgesIer funerailles.jpg|thumb|left|ゲオルギオス1世の葬儀]]
ゲオルギオス1世は、テッサロニキでもアテネと同様に護衛兵を付けずに街中を歩き回った。[[1913年]][[3月18日]]午後、[[テッサロニキ・ホワイトタワー]]付近を散策していた際、ゲオルギオス1世は[[アレクサンドロス・スヒナス]]に背後から至近距離で銃撃され、死亡した。スヒナスは取り調べの中で、「社会主義組織に属していた」「国王が自分に金を渡すことを拒否したので殺害した」と供述した。ギリシャ政府は、事件の背景に政治的な動機は無く、スヒナスは[[アルコール依存症|アルコール中毒]]の[[ホームレス|浮浪者]]であると発表した。スヒナスは刑務所で[[拷問]]を受け、その6週間後に警察署の窓から転落して死亡した。
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ギリシャとデンマークの国旗に覆われたゲオルギオス1世の棺は、タトイ宮殿の墓地に埋葬される直前の5日間は、アテネの[[生神女福音大聖堂 (アテネ)|生神女福音大聖堂]]に安置された。
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== 家族 ==
[[ファイル:Greek Royal Family II.jpg|thumb|right|240px|ゲオルギオス1世と家族たち(1892年)]]