「ヴィルモス・スィグモンド」の版間の差分

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== プロフィール ==
父親は著名なサッカー選手兼コーチ。10代半ばで写真、絵画について興味を持ち、その延長で映画の道へと進む。[[ブペスト]]の国立映画演劇アカデミーに入学後は、映画撮影で修士号を取得、その後、5年間の実地の後に、[[撮影監督]]の地位につくが、[[ハンガリー動乱]]に巻き込まれ、その様子を撮影したフィルムを持ってアメリカへ亡命することとなる。
 
亡命後は[[ユニオン]]の規制が激しく、また語学面での問題もあったため、なかなか映画の仕事にとくことができず辛酸をなめるが、当時隆盛であった低予算映画に活路を見出し、その分野のカメラマンとして活躍、[[ホラー映画|ホラー]]から[[ドキュメンタリー]]などあらゆるジャンルの映画を担当する。
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低予算で鍛えた効率のよさに加え、[[ズームレンズ]]や高感度[[写真フィルム|フィルム]]といった当時の最先端の技術を駆使し、芸術的な映像美を作り出すことで知られ、『[[未知との遭遇]]』では、徹底した[[リアリズム]]とファンタシズムの融合という難題をこなし、見事[[アカデミー撮影賞]]に輝いた。また、現像処理についても、撮影前にごく少量の光を未感光のフィルムにあて、潰れがちな暗部階調を見え易いように操作する「フラッシング」という手法を開拓するなど技術革新や表現に多大な貢献を果たしている。<!--「フラッシング」に関してはヴィットリオ・ストラーロとチネチッタ撮影所が早くから取り組んでいた説があります。-->
 
70を過ぎても現役で、『ブラックダリア』では[[デジタル]]処理を取り入れるなど意欲的に活動している。
 
2003年、ICG([[国際撮影監督協会]])は映画撮影史上最も影響を与えた人物として[[ビリー・ビッツアー]]、[[ジョーダン・クローネンウェス]]、[[コンラッド・L・ホール]]、[[ジェームズ・ウォン・ハウ]]、 [[ヴィットリオ・ストラーロ]]、[[グレッグ・トーランド]]、[[ハスケル・ウェクスラー]]、[[フレディ・ヤング]]、[[ゴードン・ウィリス]]、と並んでヴィルモス・スィグモンドを選出した。