「エドワード・プランタジネット (第17代ウォリック伯爵)」の版間の差分

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'''ウォリック伯エドワード・プランタジネット'''(''Edward(Edward Plantagenet, Earl of Warwick'', [[1475年]]2月25日 - [[1499年]]11月28日)は、[[ジョージ・プランタジネット (クラレンス公)|クラレンス公ジョージ]]の息子。クラレンス公の弟[[イングランド王国|イングランド]]王[[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]](1483年 - 1485年)、代わって王位についた[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]](1485年 - 1509年)の統治下では王位継承権も持っていた。[[ソールズベリー伯|ソールズベリー伯爵夫人]][[マーガレット・ポール]]の末弟でもある。その名が示す通り、[[プランタジネット朝|プランタジネット家]]の男系男子の最後の生き残りであった。
 
[[1475年]]2月25日、エドワードは母[[イザベル・ネヴィル]](キング・メーカーとも呼ばれた[[ウォリック伯]][[リチャード・ネヴィル (第16代ウォリック伯)|リチャード・ネヴィル]]の上の娘)の実家で生まれた。彼は父クラレンス公が反逆によって私権を剥奪され、処刑されたすぐ後の[[1478年]]にウォリック伯に叙された。
 
[[1483年]]に従兄[[エドワード5世 (イングランド王)|エドワード5世]]が即位した。本来であればウォリックにはエドワード5世の弟[[リチャード・オブ・シュルーズベリー (ヨーク公)|ヨーク公リチャード]]に次ぐ王位継承権があったはずであったが、クラレンス公が私権剥奪状態であったことを根拠に、継承者から除外された(国会制定法によって覆すことは可能だったはずであるが)、継承者から除外された
 
続いエドワード5世を廃して即位した[[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]]の一人息子[[エドワード・オブ・ミドルハム]]が[[1484年]]に急死すると、10歳のウォリックは叔父リチャードの王位継承者に指名された。これは王妃[[アン・ネヴィル]](ウォリックの母方の叔母であり、両親の死後ウォリックと姉[[マーガレット・ポール|マーガレット]]を養子にしていた)の影響のおかげと言われている。
 
しかし[[1485年]]にアン王妃が死ぬとすぐに、リチャード3世は姉エリザベス・オブ・ヨークの息子で既に成人に達している[[ジョン・ドゥ・ラ・ポール (初代リンカーン伯)|リンカーン伯ジョン・ドゥ・ラ・ポール]]をウォリックわりのえて王位継承者に指名した。この経緯について、アメリカの歴史家[[ポール・マーレー・ケンダル]]は1955年に、「ウォリックは(中略)今で言う『知恵遅れ』の少年だったと思われる」と論じている。また、英国の歴史家[[ジェレミー・ポッター]]は1983年にそれまでの歴史家の結論に基づいて、「ウォリックは(中略)単純志向であったかもしれない:後に彼は『ガチョウと鶏を区別することもできない』と言われた。」としている。恐らくリチャードは、息子を亡くして1年も経っていない失意の王妃を喜ばせるために、あくまで一時的な処置としてエドワードを王位継承者に指名したものと思われる。
 
[[1485年]]にリチャード3世を倒して[[テューダー朝]]の[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]が即位すると、ウォリックは[[ロンドン塔]]に投獄された。この時点ではまだヘンリー7世の王権は確固たるものではなく、[[ヨーク朝|ヨーク派]]の後継者として王位継承権をつウォリックは厳しくマークされたのである。特に、[[1487年]]に[[ランバート・シムネル]]がウォリックの名を騙って反逆を企てると、より厳しく監禁されることとなった。
 
[[1490年]]には父親の私権剥奪にもかかわらず、ウォリック伯の称号を許された。ただし、相変わらずロンドン塔に収監された状態である。この状態は1499年に、ヘンリー7世に反旗を翻した[[パーキン・ウォーベック]]がロンドン塔に投獄されるまで続く。ウォリックとパーキンは脱獄を謀るが失敗、両名とも反逆罪として絞首刑に処された。ここに、プランタジネットの男子の血は絶え、女子の方も姉のマーガレットが[[1541年]]に処刑されたことで完全に断絶した。
 
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