「メテオラ」の版間の差分

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アサナシオスの活動は彼の高弟でセルビア王家の出身でもある[[修道士ヨアサフ (セルビア王子)|修道士ヨアサフ]]によって受け継がれる事になった。ドゥシャン王の異母弟でセサリア君主の座に就きメテオラにも保護を与えていた[[シメオン・ウロシュ・パレオロゴス]]の息子であるヨアサフは、早くからこの地の修道士と交流を持ち、セサリアの支配権と俗世の生活を捨ててメテオラに隠退した。[[1384年]]の師アサナシオスの死後、彼は変容修道院の院長に就任し、主聖堂の再建など、修道院の整備に尽力した。
 
[[1393年]]から翌[[1394年]]にかけて、[[バルカン半島]]に支配権を広げていた[[オスマン帝国|オスマン朝]]はセサリアをも併合した。長い異教徒支配の時代がここに始まり、初期には異教徒支配を嫌い、アソスに移住する修道士も見られたが(ヨアサフもその一人である)、オスマン朝はメテオラの修道院に一定の保護を与えその活動を保証したので、間もなく修道士も戻り、変わりなく修道活動が継続された。[[1490年]]には変容修道院がメテオラの全修道院を統括する存在となり、「大メテオロン」の異称が一般化していく。15世紀後半には[[日本ハリストス正教会#「至聖三者」(しせいさんしゃ)|至聖三者]](アギア・トリアダ)修道院が、16世紀にはヴァルラアム修道院とルサヌ修道院がそれぞれ現在の形で創立された。この時代には「クレタ派」と呼ばれる[[イコン]]の流派がこの地で活動し、現在も残る数多くの傑作フレスコ画を残している。
 
メテオラを含むセサリア地方の大半は[[露土戦争 (1877年)|露土戦争]]後の[[1881年]]に[[ギリシア]]領に編入された。近代国家の中でも修道院活動は続いたが、近年は新たな問題が持ち上がってきた。メテオラの風光明媚な景色と修道院文化への関心からこの地域も観光地化が進み、世俗を避ける修道士にとっては活動に適さなくなりつつある。その為、メテオラを捨てより閉鎖的な[[アトス山]]に移住する修道士が増加している。争乱の時代にアソスを捨てた修道士によって建設されたメテオラ修道院共同体であるが、今度は近代化の波の中で逆の現象が生じたのである。なお、20世紀に入り、二つの修道院が女子修道院に改組されて現在に至っている。