「レオ4世 (ローマ教皇)」の版間の差分
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[[ローマ]]生まれであり、満場一致で[[セルギウス2世 (ローマ教皇)|セルギウス2世]]の後継として選出された。847年[[4月10日]]に教皇に選ばれた時、彼は[[四王冠教会]]の[[枢機卿]]であり[[グレゴリウス4世 (ローマ教皇)|グレゴリウス4世]]の副助祭で前任者の配下の主席[[司祭]](vicar forane)であった。彼の在位期間は、前任者の時代に[[サラセン人]]によって加えられたローマ市内の諸教会への損傷を、特に[[サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂]]と[[サン・ピエトロ大聖堂]]へと加えられた損傷を修復しようと力を尽くしたことが特徴的である。
サラセン人が[[ガエータ]]を包囲した後、[[848年]]から[[849年]]の間にレオは都市の城壁を修復し強化した。ムスリムが[[テヴェレ川]]北岸の港湾([[:en:Portus|Portus]])に迫ると、レオは[[ナポリ]]、ガエータおよび[[アマルフィ]]の海運都市の軍を召喚し、同盟軍を作った。連合艦隊の指揮はナポリ公の息子であるシザーリオに委ねられた。つづくムスリムとの海戦である「オスティアの戦い」は中世教皇史上もっとも有名な戦いのひとつであり、
サラセンの脅威の排除を決定的にするため、レオはテヴェレ川右岸の近郊地帯を護る新しい城壁を建造することを命じた。それは無防備だったサン・ピエトロ大聖堂をも含むものだった。城壁によって囲まれた地区はレオの市街を意味する[[:en:Leonine City|''Civitas Leonina'']]という名で今日まで知られている。彼は損傷を受けた城壁外の聖パウロ教会とサン・ピエトロの装飾を行なったことでも知られる。金で覆われ宝石で飾られた93.3kgもの祭壇が再び設置された。
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