「ヴワディスワフ1世 (ポーランド王)」の版間の差分

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'''ヴワディスワフ1世ウォキェテク'''(Władysław I Łokietek, 1260年/1261年 - [[1333年]][[3月2日]])は、[[ポーランド国王|ポーランド王]](在位:1320年 - 1333年)。'''短身王'''(Łokietek)と呼ばれた。1305年より[[長子領|クラクフ公]]であり、1320年に国王として戴冠した。
 
== 称号 ==
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== 生涯 ==
[[ファイル:Wojciech Gerson-Wladyslaw Lokietek.jpg|left|250px|thumb|逃避行上のヴワディスワフ1世]]
ヴワディスワフは1260年頃、ウェンチツァ、シェラツ、クヤヴィの公であった[[カジミェシュ1世 (クヤヴィ公)|カジミェシュ1世]]の三男として生まれた。母はその3番目の妻でオポーレ公[[カジミェシュ1世 (オポーレ公)|カジミェシュ1世]]の娘[[エウフロジナ・オポルスカ|エウフロジナ]]である。父が1267年に死去すると、ヴワディスワフは異母兄[[レシェク2世]]らの兄弟たちとともに父の遺領を分割相続し、[[クヤヴィ公国]]を獲得した。しかし兄弟たちは子供を残さずに相次いで死去し、彼らの遺領を自分の領地に組み入れていく中で、ヴワディスワフは[[ポーランド王国]]の再統合事業を始めることになった。彼の次の目標は、ライバル関係にあった[[ポーランド|ポーランド王]][[プシェミスウ2世]]が領する[[マウォポルスカ]]を奪い取ることであった。1296年にプシェミスウ2世が死去すると、ヴワディスワフは先王からマウォポルスカと[[ポモジェ]]を相続することを主張した。ヴワディスワフはポーランド人の君主を望むマウォポルスカの農民、騎士、一部の聖職者に支持されていたが、結局は在地の領主たちが支持する[[ボヘミア君主一覧|ボヘミア王]][[ヴァーツラフ2世]](1300年にポーランド王となる)にマウォポルスカを明け渡すことになった。
 
ヴワディスワフは国外への亡命を余儀なくされていたが、ボヘミア王によるポーランド支配は結局うまく行かず、さらにヴァーツラフ2世と息子[[ヴァーツラフ3世]]の相次ぐ急死でボヘミアは混乱状態に陥った。一方のヴワディスワフは1305年に帰国し、自身の支持者たちの軍勢を引き連れてマウォポルスカを占領した。15世紀の歴史家[[ヤン・ドゥゴシュ]]によれば、ヴワディスワフの軍勢は騎士ではなく農民が主体になっていた。またヴワディスワフは[[グダニスク]]を中心にポモジェをも征服したが、在地の領主や[[ブランデンブルク]]から移住してきたドイツ人たちの支持を得ることができず、[[バルト海]]沿岸に対する支配をあきらめざるを得なくなった。
 
[[ファイル:Wladyslaw Lokietek.jpg|left|200px|thumb|[[ヤン・マテイコ]]による肖像画]]
1309年、ヴワディスワフと並ぶポーランドの有力諸公だったグウォグフ公[[ヘンリク3世 (グウォグフ公)|ヘンリク3世]]も死去した。1311年までに、ヴワディスワフはマウォポルスカと世襲領地クヤヴィにおける支配権を確固たるものにしていた。クラクフとサンドミェシュでのドイツ人支配層の反乱([[ヴイト・アルベルトの反乱]])も起きたが、ヴワディスワフは同地の貴族、地主、都市民の支持を受けていたため、支配権を失うことはなかった。1314年には、かつてグウォグフ公を支持していた[[ヴィエルコポルスカ]]もヴワディスワフの領国に組み込まれた。1318年、ヴワディスワフはポーランド王冠の獲得に乗り出した。[[教皇]][[ヨハネス2世 (ローマ教皇)|ヨハネス2世]]は[[ボヘミア]]王[[ヨハン・フォン・ルクセンブルク|ヨハン]]がポーランド王位を主張していたこともあって当初は認可を渋ったが、最終的にはこれを容認した。1320年1月20日、ヴワディスワフはポーランド王としてクラクフで戴冠した。この戴冠式は、ポーランドが再統合された独立の王国になったという政治的な主張であった。
 
ヴワディスワフは晩年を[[ドイツ騎士団]]との戦争に費やすことになった([[ポーランド・テュートン戦争 (1326年-1332年)|ポーランド・テュートン戦争]])。ボヘミア王ヨハンもポーランド王位を諦めておらず、ドイツ騎士団と同盟して北と西からヴワディスワフの王国を攻めた。1328年には、[[ボヘミア王国|ボヘミア]]と騎士団の連合軍が[[ドブジン]]を奪取した。ヴワディスワフは1331年9月27日、[[クヤヴィ]]地方、[[ラジェユフ]]近郊の[[プウォフツェの戦い]]で騎士団に復讐した。この戦いでヴワディスワフは[[十字軍]]を標榜するドイツ騎士団を打ち負かして、彼らの領土拡大をなんとか食い止めた。
 
ヴワディスワフは、自分の支配するポーランドの諸地域に単一の法典を適用しようと務めた。この法典では、[[ユダヤ人]]にもキリスト教徒と同様の安全と自由が保障されるように取り計らわれた。
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#ヴワディスワフ(1311/1312年没)
#[[クネグンダ・ウォキェトクヴナ|クネグンダ]](1298年頃 - 1331年4月9日) - 1310年、シフィドニツァ公[[ベルナルト (シフィドニツァ公)|ベルナルト]]と結婚、のち[[ザクセン君主一覧|ザクセン選帝侯]][[ルドルフ1世 (ザクセン選帝侯)|ルドルフ1世]]と再婚。
#[[エルジュビェタ・ウォキェトクヴナ|エルジュビェタ]](1305年 - 1380年12月29日) - 1320年7月6日、[[ハンガリー一覧|ハンガリー王]][[カーロイ1世 (ハンガリー王)|カーロイ1世]]と結婚。
#[[カジミェシュ3世 (ポーランド王)|カジミェシュ3世]](1310年4月30日 - 1370年11月5日)
#ヤドヴィガ(1320/1322年6月3日没)
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[[Category:ポーランドの君主国王]]
[[Category:ピャスト家]]
[[Category:14世紀生]]