「アウグスト3世 (ポーランド王)」の版間の差分
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| 全名 = フリードリヒ・アウグスト・フォン・ザクセン
| 出生日 = [[1696年]][[10月7日]]
| 生地 = [[ドレスデン]]、[[ザクセン
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1696|10|7|1763|10|5}}
| 没地 = ドレスデン、ザクセン
| 埋葬日 =
| 埋葬地 = [[カトリック城内教会]]、ドレスデン
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| 配偶者3 =
| 子女 = [[フリードリヒ・クリスティアン (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ・クリスティアン]]<br/>[[マリア・アマリア・フォン・ザクセン|マリア・アマリア]]<br/>[[マリア・アンナ・ゾフィア・フォン・ザクセン|マリア・アンナ・ゾフィア]]<br/>[[フランツ・クサーヴァー・フォン・ザクセン|フランツ・クサーヴァー]]<br/>[[マリー=ジョゼフ・ド・サクス|マリア・ヨーゼファ]]<br/>[[カール・フォン・ザクセン|カール]]<br/>[[マリア・クリスティーナ・フォン・ザクセン (1735–1782)|マリア・クリスティーナ]]<br/>マリア・エリーザベト<br/>[[アルベルト・カジミール・フォン・ザクセン=テシェン|アルベルト・カジミール]]<br/>[[クレメンス・ヴェンツェスラウス・フォン・ザクセン|クレメンス・ヴェンツェスラウス]]<br/>[[マリア・クニグンデ・フォン・ザクセン|マリア・クニグンデ]]
| 王家 = [[ヴェッティン家]][[アルベルティン家|アルブレヒト系]]
| 王朝 =
| 王室歌 =
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| 母親 = [[クリスティアーネ・フォン・ブランデンブルク=バイロイト]]
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'''アウグスト3世サス'''(August III Sas, [[1696年]][[10月7日]] - [[1763年]][[10月5日]])は、[[ポーランド・リトアニア共和国]]の[[ポーランド国王|国王]](在位:[[1734年]] - [[1763年]])、[[ザクセン君主一覧|ザクセン選帝侯]](在位:[[1733年]] - [[1763年]])。[[アウグスト2世 (ポーランド王)|アウグスト2世]]の唯一の嫡出子、母は王妃[[クリスティアーネ・フォン・ブランデンブルク=バイロイト]]。ザクセン選帝侯としては'''フリードリヒ・アウグスト2世'''(Friedrich August II)と呼ばれる。[[フランス大元帥]][[モーリス・ド・サックス]]は異母弟、[[バイエルン大公|バイエルン選帝侯]]兼[[神聖ローマ皇帝]][[カール7世 (神聖ローマ皇帝)|カール7世]]は義弟。
== 国王称号 ==
*[[ラテン語]]:Augustus tertius, Dei gratia rex Poloniae, magnus dux Lithuaniæ, Russiæ, Prussiæ, Masoviæ, Samogitiæ, Kijoviæ, Volhiniæ, Podoliæ, Podlachiæ, Livoniæ, Smolensciæ, Severiæ, Czerniechoviæque, nec non hæreditarius dux Saxoniæ et princeps elector.
*「アウグストゥス3世、神の恩寵による[[ポーランド王]]
== 生涯 ==
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フリードリヒ・アウグスト2世は、父アウグスト2世(フリードリヒ・アウグスト1世)の死によって世襲する[[ザクセン公国]]およびザクセン選帝侯位を継承したが、[[選挙君主制|選挙王制]]のポーランドでは、[[セイム]]による[[国王自由選挙]]を経なければ王位の継承が認められなかった。フリードリヒ・アウグスト2世はあくまでポーランド王位を要求し、[[ポーランド継承戦争]]が勃発した。
ポーランド王にはポーランド議会の支持により、[[大北方戦争]]時代に一時王位に就いた[[スタニスワフ・レシチニスキ|スタニスワフ1世]]が再登極していたが、一部のポーランド貴族の支持によってフリードリヒ・アウグスト2世が担ぎ上げられた。しかし、ポーランドの内紛は近隣諸国の介入を呼び、内戦から諸外国を巻き込んだ戦争へと発展していった。フリードリヒ・アウグスト2世は[[
[[1740年]]、カール6世の死去によって[[ハプスブルク家]]の男子が絶えると、[[マリア・テレジア]]の家督相続を巡って[[オーストリア継承戦争]]が勃発した。アウグスト3世はカール6世の兄[[ヨーゼフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ1世]]の娘[[マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ (1699-1757)|マリア・ヨーゼファ]]を妃としていたため、マリア・テレジアの支持を表明しながらも、ハプスブルク家領であったベーメン([[ボヘミア]])の継承を主張してベーメンに侵攻した。しかし結局、和平交渉の後に撤退を余儀なくされた。その後、ハプスブルク家領であった[[シレジア|シュレージエン]]の領有を巡る[[プロイセン
アウグスト3世の晩年、[[1756年]]に[[七年戦争]]が勃発するが、ザクセンにもポーランドにも、もはやこれに対抗しうる国力はなかった。ザクセンは真っ先にプロイセンに占領され、アウグスト3世は宮廷をポーランドに避難させた。またポーランドは、プロイセンへ進撃するロシア軍の通り道にしかならなかった。ザクセンは帝国領であるが故に致命的な損失を免れたが、ポーランドでは国力の低下や王権の一層の弱体化、国家主権の衰退などを露呈させる結果となった。
1763年10月、アウグスト3世は死去した。息子[[フリードリヒ・クリスティアン (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ・クリスティアン]]がザクセン選帝侯を継承するも、同年12月に急死した。これにより、[[アルベルティン家|アルブレヒト系]][[ヴェッティン家]]はポーランド王位を失った(後に孫でフリードリヒ・クリスティアンの子、[[ザクセン
== 子女 ==
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{{先代次代|[[ザクセン君主一覧|ザクセン選帝侯]]|1733年 - 1763年|[[アウグスト2世 (ポーランド王)|フリードリヒ・アウグスト1世]]|[[フリードリヒ・クリスティアン (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ・クリスティアン]]}}
{{先代次代|[[ポーランド
{{ポーランド君主一覧}}
{{History-stub}}
{{DEFAULTSORT:あうくすと3}}
[[Category:ザクセン選帝侯]]
[[Category:ポーランド
[[Category:リトアニア大公]]
[[Category:ヴェッティン家アルブレヒト系]]
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