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'''佐藤 秀方'''(さとう ひでかた、? - [[文禄]]3年([[1594年]]))は、、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[安土桃山時代]]の[[武将]]。読みは、'''ひでまさ'''とも伝わる。[[佐藤清信]]の息子。通称六左衛門尉、従五位下隠岐守。妻は[[金森長近]]の姉。[[美濃国]]鉈尾山(なたおやま)城主。息子に[[佐藤方政]]。
 
元亀元年(1570年)7月に父の清信が没すると家督を継ぎ、[[織田信長]]に[[母衣]]衆として仕えた。[[伊勢国]]大河内城攻略、[[小谷城]]攻略、[[月岡野の戦い]]、[[長島一向一揆]]鎮圧などに参陣。[[天正]]3年([[1575年]])5月の[[長篠の戦い]]では、[[徳川家康]]配下の[[酒井忠次]]につけられて、鳶巣山城を攻撃した。その後[[織田信忠]]付となり、東美濃衆の一員として、天正6年(1578年)には、越中戦線に派遣された。[[本能寺の変]]の後、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に仕えた。天正11年、秀吉の命で、[[森長可]]とともに[[織田信孝]]傘下の立花山城に籠もる[[遠藤慶隆]]を包囲、攻撃した。その後、[[紀州征伐]]([[千石堀城#千石堀城の戦い|千石堀城の戦い]])、[[小田原の役]]、[[文禄・慶長の役|文禄の役]]に従軍した。文禄2年、家督を嫡男方政に譲り、翌年没する。墓所は、清泰寺([[岐阜県]][[美濃市]])。法名、泰岑以安。
 
[[Category:戦国武将|さとうひてかた]]