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== 生涯 ==
城下士・川崎主右衛門基明(兼高)の息子として生まれ、[[天明]]8年([[1788年]])に城下士・調所清悦の養子となる。茶道職として出仕し、[[寛政]]10年([[1798年]])に江戸へ出府し、隠居していた前薩摩藩主・[[島津重豪]]にその才能を見出されて、登用される。ちなみに養父清悦は同年11月27日に江戸で死去し<ref>「鹿児島県史料集 薩陽過去帳」参照。養父の法号は良泰院禅応喚宗居士。</ref>、この年に[[家督]]相続したものと思われる。調所家は、[[藤原氏]]北家藤原恒親を祖とし、調所恒林は、[[近衞前久]]より「廣」の一字拝領、廣榮と改め、調所家通し字となる。(「旧記雜録家分け調所氏」参照。)
 
後に藩主・[[島津斉興]]に仕え、使番・[[町奉行]]などを歴任し、[[小林市|小林郷]][[地頭]]や[[鹿屋市|鹿屋郷]]地頭、[[南大隅町|佐多郷]]地頭を兼務する。藩が[[琉球王国|琉球]]や[[清]]と行っていた密貿易にも携わる。[[天保]]3年([[1832年]])には家老格に、天保9年([[1838年]])には家老に出世し、藩の財政・農政・軍制改革に取り組んだ。[[弘化]]3年7月27日には[[志布志市|志布志郷]]地頭となり、死ぬまで兼職する。