「エフゲニー・ムラヴィンスキー」の版間の差分

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== 日本との関係 ==
レニングラード・フィルは[[1958年]]に初来日を果たすが、ムラヴィンスキーは病気のために同行できなかった。[[1970年]]はムラヴィンスキーに出国許可が下りず(表向きは急病とされる)、代役で[[スヴャトスラフ・リヒテル]]が初来日している。[[1973年]]になってリヒテルの代役としてようやく初来日が実現した。飛行機嫌いのため、シベリア鉄道と船を長期間乗り継いでの来日であった。ムラヴィンスキーは最初、遙か遠方の日本まで足を運ぶことをあまり快く思っていなかったとされているが、迎える側の献身もあり、彼は日本に対して非常に大きな好感を抱き、和食や伝統文化を好んたという。その後は[[1975年]]、[[1977年]]、[[1979年]]と、三回の来日を果たしている。
 
[[1981年]]、[[1986年]]にも来日が予定されていたが、それぞれ出国の不許可、体調不良により断念した。1981年の来日断念に関しては、1979年の来日時にレニングラード・フィルの楽員から亡命者が出たことで、もともと党との関係が良好でなかったムラヴィンスキーの立場がさらに悪化したことと、日本の[[モスクワオリンピック]]ボイコットによるソ連当局の悪感情が影響したためとされている。尚、[[1986年]]の来日公演は[[1973年]]以来の映像収録も予定されていた。
 
広島の[[厳島神社]]を訪れた際、「日本は11世紀からの文化を残していて素晴らしい。ロシアは革命で古い教会や美しい[[イコン]]を破壊してしまいました。」と悲しそうに語った。
 
== 代表的なレパートリー ==