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茴香 (会話 | 投稿記録)
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この三者のうち、川勝と矢野は互いに激しい批判を繰り返し、10を超える応酬が繰り広げられた。越智は論争自体には積極的には関わろうとせず、史料を渉猟して自説の補強に努めた。それぞれの研究成果は川勝1982、矢野1976、越智1982にまとめられている。
 
川勝は[[1984年]]に死去し、論争は決着を見ないままに終わりを告げた。長い間の論争にも拘らず、川勝・矢野共にその立場は論争が始まる前と終わった後であまり変化が見受けられない。これに関して[[中村圭爾]]はこう述べる。「つまり、川勝・矢野はその方法や資格視角いて、最後まで共通の地平に立つことは出来なかった。(中略)かれらの対立の根底はここにあるのであり、さらえばその深層に貴族制とはいかなるものかという概念の分裂がある。」<ref>中村1993、pp95</ref>
 
この問題意識のもとに、中村は、川勝の共同体論・矢野の寄生官僚制論を、どちらも貴族制を理解するために必要な「視点」であり、どちから片方を欠いて貴族制を語るようなことはなされるべきではないとした。つまり越智・矢野・川勝・谷川らの研究はそれぞれ貴族という存在の異なる面に光を当てるものであり、そこから現れた像が表面上は矛盾して見えてもそれを内包するのが貴族という存在であるということである。ここにおいて論争は一旦振り出しに戻ることになる<REF>中村1987</REF>。