「武田信義」の版間の差分

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だが、それと同時期甲斐源氏は自分と同格の武家の棟梁の存在を排除もしくは屈服させるという頼朝の路線の障害となる存在となってしまう。[[養和]]元年([[1181年]])には、[[後白河天皇|後白河法皇]]が信義を頼朝追討使に任じたという風聞が流れ、信義は駿河守護を解任されたうえ鎌倉に召喚され、「子々孫々まで弓引くこと有るまじ」という[[起請文]]を書かされている。[[元暦]]元年([[1184年]])[[6月16日 (旧暦)|6月16日]]、子の一条忠頼が鎌倉に招かれ宴席で暗殺された。また[[土肥実平]]より上位にあるという書状を送った子の[[板垣兼信]]に対して頼朝が実平優位を示す返書を出すということもあった。その一方で親頼朝派の加賀美遠光に対しては「信濃守」任官を朝廷に申請するなど厚遇した。このように、親和策と弾圧をそれぞれの一族が個別に受けた結果、挙兵時頼朝や義仲と同格の武家棟梁であった甲斐源氏各人は[[鎌倉殿]]の[[御家人]]という扱いへと転じていくことになる。
 
文治2年([[1186年]])[[3月9日 (旧暦)|3月9日]]、失意のうちに病没した。享年59。家督は五男の[[武田信光|石和五郎信光]]が継いだ。なお、『吾妻鏡』には[[文治]]2年[[3月9日 (旧暦)|3月9日]]に没したとの記載があるが、その後、[[1190年建久]]元年([[建久1190年]]元年)の頼朝上洛の隋兵に武田信義の名があったり、建久5年([[1194年]](建久5年)の[[東大寺]]造営や[[小笠懸]]の射手]]に信義の名が見られることから、文治2年([[1186年]](文治2年)以降も信義が生存している可能性が濃厚であるとの指摘もある。([[五味文彦]]・[[本郷和人]]編『現代語訳吾妻鏡』([[吉川弘文館]])第1巻 五味氏序文)
 
また、嗣子の信光の妻は義重の娘であったことから、親族の[[新田義重]]と親交があったという。
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== 外部リンク ==
* [http://www.yabusame.or.jp/ 武田流弓馬道(大日本弓馬会:鎌倉)公式ページ]
 
 
{{甲斐武田氏当主|初代|1168 - 1186}}