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{{クラシック音楽}}
'''ハインツ・ティーセン'''(''Richard(Richard Gustav Heinz Tiessen''、, [[1887年]][[4月10日]] - [[1971年]][[11月29日]])は、[[ドイツ]]の[[作曲家]]
 
[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]](現在の[[カリーニングラード]])出身。[[ベルリン大学]]とベルリン市立音楽院に入学し、[[作曲]][[音楽理論]]を学ぶ。[[1911年]]から[[1917年]]まで音楽評論を行い、[[1918年]]に民衆劇場(フォルクスビューネ)の[[楽長|カペルマイスター]]兼作曲家となり、[[1925年]]から[[1945年]]の間までベルリン音楽大学(現在の[[ベルリン芸術大学]])で音楽理論と作曲を教えた。また[[ISCM]]のドイツ支部の創設者のひとりである。彼の音楽は[[ナチス・ドイツ]]時代には[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]政権によって「不適切」と分類された。[[第二次世界大戦]]後はほとんど作曲をしなくなったが、[[1955年]]にベルリン音楽大学の作曲・音楽理論学部の学部長となった。著名な教え子に[[エドゥアルト・エルトマン]]、[[セルジュ・チェリビダッケ]]がいる。
 
作品には2つの[[交響曲]]、[[劇付随音楽]]、[[管弦楽曲]]、[[室内楽曲]]、ピアノ曲、オルガン曲、[[歌曲]]、合唱曲などがある。初期の作品は[[リヒャルト・シュトラウス]]の影響が色濃いが、1918年以降は[[表現主義]]に傾斜していった。
 
==作品==
* 交響曲第1番(1910-1911) 1911年)
* 交響曲第2番「死してなれ」(1911-1912) 1912年)
* ハムレット組曲(1919-1921) 1921年)
* ピアノのための3つの小品(1923)(1923年)
* 舞踊劇「サランボ(1924)(1924年)
* ピアノと管弦楽のための協奏的変奏曲(1961)(1961年)
 
==エピソード==
* [[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]の首席指揮者のポストが[[レオ・ボルヒャルト]]の事故死により空席となったとき、チェリビダッケにオーディションを受けるよう勧めたのティーセンだったといわれる。
* またベルリン・フィルを指揮して得意の絶頂にあったチェリビダッケに「効果だけを狙いすぎている」と苦言を呈し、それがきっかけでチェリビダッケは[[ゲオルク・フィリップ・テレマン|テレマン]]『[[ターフェルムジーク]]』などのシンプルな形の音楽から勉強をやり直した、と語っている。一匹狼のチェリビダッケさえも言うことを聞かせる、というところにその人格者ぶりがうかがえる。
* 名前が、同時代の[[バイロイト音楽祭|バイロイト]]の実力者[[ハインツ・ティーチェン]]と似ているが、全く別人である。
 
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[[Category:ドイツの作曲家]]
[[Category:近現代の作曲家]]
[[Category:ケーニヒスベルク出身の人物]]
[[Category:1887年生]]
[[Category:1971年没]]
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[[de:Heinz Tiessen]]