「鬼坊主清吉」の版間の差分

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'''鬼坊主 清吉'''(おにぼうず せいきち、[[安永]]5年([[1776年]]) - [[文化 (日本)|文化]]2年([[1805年]])[[6月27日 (旧暦)|6月27日]])こと[[無宿]]清吉は、[[江戸時代]]の[[盗賊]]である。
 
本格的な盗賊家業に入る前から悪に染[[牛込]]生れ。父は漁師をしていたらしいが家は貧しく、一度京橋の加治屋という商家に奉公に出される。盗みで捕縛され、入墨を入れられ重敲の刑を受けたが[[非人小屋]]に入って入墨を消し、日雇いとなった。しかし、入墨を消した罪でまた再び捕縛され、再度入墨を入れられた上で江戸追放の刑を受けた。しかしそんなものは鬼坊主にとって全く意味がなかったようで、数人の仲間と徒党を組み、路上強盗、引ったくり、武装強盗を連日にわたって繰り返し、懸命の捜査を行う[[町奉行]]や[[火付盗賊改方]]をあざ笑うかのごとく江戸中を蹂躙した。
 
あまりの神出鬼没振りにこの種の犯罪としては異例の人相書(普通人相書が出回る罪は当時一番重罪だった逆罪、すなわち主人や親を殺傷する罪である)が作成され、非常の捜査体制である捕物出役まで発動された。そのため上方へ逃亡し、文化2年(1805年)4月に彼の地で捕縛される(捕縛された場所については京都の大仏堂前と伊勢・[[津]]の2説ある)。
 
4月24日、江戸に護送されるが、有名人である鬼坊主を一目見ようと群衆が押し寄せた。鬼坊主は北町奉行[[小田切直年]]の尋問に対して罪を認め、2ヵ月後の6月27日、[[市中引き回し]]の上、[[小塚原]]で仲間2名(無宿左官粂こと粂次郎24歳、無宿三吉こと入墨吉五郎28歳)と共に[[獄門]]にかけられた。享年30。
 
[[辞世]]の句は、「武蔵野に名もはびこりし鬼薊(おにあざみ) 今日の暑さに乃(やが)て萎(しお)るる」
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* 丹野顕 『江戸の盗賊』 [[青春出版社]]、2005年、128頁。
* [[小木新造]] 『図説大江戸知れば知るほど』 [[実業之日本社]]、1996年、156頁。
* 山下昌也 『江戸の悪党』 [[学研新書]]、2010年、106頁。
 
== 関連項目 ==
*『[[鬼あざみ]]』 - 落語