「GLA (宗教法人)」の版間の差分

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== 沿革 ==
196919688月頃に高橋信次の下に集まってきた人々に対して信次が自宅で教えを説いていたのが始まりで、
当時は、一回土曜日に集まる為に「土曜会」と称していた。その後、「大宇宙の神の光自然発生的に組織顕現する会」とい形成しよ意味あいで、「大宇宙神光会」するようになった。(又の名は「神理の会」。動きが生じ、
1969年4月に「大宇宙神光会」が発足した。1970年12月には、国際化を考慮して
これは信次が説いていた教えをGLAでは「神理」({{要出典範囲|date=2010年8月|「神の摂理」の略語}})と称していた為。)。信次は、1971年頃より、
会名を「GLA」に変更した。<ref name="sinshukyojidai2">清水雅人 編『新宗教時代2』大蔵出版、1994年12月、ISBN 978-4804352074</ref>。
なお、信次は、1971年10月より、当時の仏教系新宗教・霊友会系分派教団の「宗教法人瑞宝会」(信者約3万6千人)においても講演するようになり、
瑞宝会教団そのものが集団帰依するという形で{{要出典範囲|date=2010年8月|合併した。その際に宗教法人格を取得している団体と一般の団体が合併する場合、宗教法人格を残さないといけないという法律に則り、宗教法人神光会となった。}}その後、神光会の発展による国際化を考慮し、
神光会とにおても講演するよ言葉を英語名し、「God Light Association」としてなり瑞宝会教団その頭文字を取り、GLA、が集団帰依するという形で宗教法人GLA関西本部となった。その際の
<ref name="sinshukyojidai2"/>。
{{要出典範囲|date=2010年8月|名付け親は、株式会社経済界主幹の佐藤正忠}}。また、瑞宝会教団は、宗教法人GLA関西本部となった。その後、GLAは発展を重ね、一時期{{要出典範囲|date=2010年8月|公称信者数10万人台}}にまで
膨れ上がった。しかし、1976年信次の死去に伴い、{{要出典範囲|date=2010年8月|後継者争いが生じ、分裂してしまう}}。
{{要出典範囲|date=2010年8月|主として、信次の直の娘である高橋佳子氏を師として仰ぐグループ(GLA総合本部)と
信次を師として仰ぐグループ(園頭広周をリーダーとするグループ、また、宗教法人GLA関西本部等)に大別される。
それらを称し、宗教学の世界では、GLA系諸教団と言う。}}
 
 
1976年、高橋信次は、自らが真のメシヤ「エル・ランティ」(霊太陽、天上界の最高責任者とも)
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信次と若い新参者の佳子に対して、周辺にいた者に、猜疑心や不信感、嫉妬心や対抗意識などの荒みが
出ていたということである。その後、信次の健康状態の悪化に伴い、佳子は信次の代理として講演活動を
行うようになり<ref name="sinshukyojidai2"/>、信次の死去に伴い当時19歳の佳子が法の継承者になった。信次は生前、佳子に対して、
信次は生前、佳子に対して、「自分は今の日本人が解りやすいように主として仏教的な説き方をしたが、これでは神理は世界に伝わらない。
佳子は新しい言葉で語りなさい」と言い、
関西における講演会にて実際に佳子が自分の言葉で講演したことを東京にいながら感じ、大いに喜んだという
<ref name="sinshukyojidai2"/>
<ref name="yokosoGLAhe">GLA総合本部出版局『ようこそGLAへ』</ref>
<ref name="sinshukyojidai2">清水雅人 編『新宗教時代2』大蔵出版、1994年12月、ISBN 978-4804352074</ref>。
 
GLAの会員数は、1976年6月(高橋信次の死亡時)9千人弱