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'''北郷 義久'''(ほんごう よしひさ、生没年不詳)は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]から[[室町時代]]前期の[[日向国|日向]]の武将。[[薩摩国|薩摩]]及び[[大隅国|大隅]][[守護]][[島津氏]]の有力支族である[[北郷氏]]2代当主。北郷氏初代当主である[[北郷資忠|資忠]]の嫡男。諱は誼久とも。法名は道端、官位は讃岐守。妻は[[和田正覚]]の娘。子に北郷氏3代当主の[[北郷久秀|久秀]]、4代当主の[[北郷忠道|忠通]]、[[北郷知久|知久]]、出家して[[仁厳寺]]開祖となった[[秋江和尚]]などがいる。
 
北郷氏2代当主。[[永和 (日本)|永和]]元年/[[天授 (日本)|天授]]元年([[1375年]])、神代の時代の[[神武天皇]]の宮居の跡という伝説が残る南郷都島(現[[宮崎県]][[都城市]]都島町)に[[都之城]]を築き北郷氏の本拠地とした。後世、この城の名が都城という一帯の地名となった。同年、[[北朝 (日本)|北朝]]方の[[室町幕府]]の[[九州探題]][[今川貞世|今川了俊]]は、九州三人衆とよばれていた[[大友親世]]、[[少弐冬資]]、[[島津氏久]]を召喚した際、[[筑前国|筑前]][[守護]][[少弐冬資]]を謀殺した([[水島の変]])これに憤った島津氏当主の[[島津氏久]]は了俊のもとを去り本国へ戻り、[[南朝 (日本)|南朝]]に与した。了俊は島津氏の薩摩及び大隅守護職を罷免し、自らが2国の守護職を兼任した。
== 経歴 ==
北郷氏2代当主。[[天授 (日本)|天授]]元年([[1375年]])、神代の時代の[[神武天皇]]の宮居の跡という伝説が残る南郷都島(現[[宮崎県]][[都城市]]都島町)に[[都之城]]を築き北郷氏の本拠地とした。後世、この城の名が都城という一帯の地名となった。同年、[[室町幕府]]の[[九州探題]][[今川了俊]]は、九州三人衆とよばれていた[[大友氏]]、[[少弐氏]]、島津氏を召喚した際、[[筑前国|筑前]][[守護]][[少弐冬資]]を謀殺した。([[水島の変]])これに憤った島津氏当主の[[島津氏久]]は了俊のもとを去り本国へ戻り、[[南朝 (日本)|南朝]]に与した。了俊は島津氏の薩摩及び大隅守護職を罷免し、自らが2国の守護職を兼任した。
 
永和2年/天授2年([[1376年]])、了俊は島津氏を討伐するため5男の[[今川範|範]]を日向に派遣し島津氏の支族である北郷氏の都之城を攻めた。南九州の[[国人]]である[[市来氏]]、[[渋谷氏]]、[[牛屎氏]]、[[菱刈氏]]、[[禰寝氏]]、[[肝付氏]]、[[伊東氏]]、[[土持氏]]、[[北原氏]]、[[野辺氏]]、[[相良氏]]などの諸氏は範に従った。義久は弟で[[樺山氏]]を相続した[[樺山音久]]らとともに都之城を固守、氏久は北郷氏を救援するため出陣し今川側と激しく闘った。義久の弟、[[北郷基忠|基忠]]と[[北郷忠宣|忠宣]]は討死し義久自身も重傷を負った。島津方の損害も大きかったが今川方の損害も大きく、範は都之城を落とすことはできなかった([[蓑原の合戦]])

その後、[[明徳]]3年/[[元中]]9年([[1392年]])の[[明徳の和約|南北朝合一]]後までも島津方と今川方の争いは続き、[[応永]]元年([[1394年]])の[[梶山城]]の戦いでは、義久の3男で北郷氏3代当主である久秀及び4男[[北郷忠道|忠通]]が討死している。両者の争いは、応永2年([[1395年]])、了俊が上京し九州探題を罷免されたことによりようやく終結した。
 
義久は都城にて67歳で没し、墓は都城市庄内町の釣璜院址に現存している。法名は道端。
 
== 参考文献 ==