「マンフレート・カンター」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
TobeBot (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる 追加: la:Manfredus Kanther
編集の要約なし
2行目:
[[ヘルムート・コール]]政権で[[1993年]]から[[1998年]]まで[[内務大臣]]を務めた。[[シュレジエン]]([[シレジア]]、現在の[[ポーランド]]領シロンスク)、[[シレジア]]、シュヴァイドニッツ([[シチュシェリン]])出身。
 
[[1958年]][[アビトゥーア]]取得。[[フィリップ大学マールブルク|マールブルク大学]]と[[ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボン|ボン大学]]で[[法律]]を学ぶ。学生時代は学友会([[w:Studentenverbindung|Studentenverbindung]])組織である''Corps Guestphalia Marburg''(現在は''Corps Guestphalia et Suevoborussia Marburg'')に参加している。[[1967年]]から[[1970年]]までプレッテンベルクでStadtoberrechtsratの地位にあった。
 
[[1974年]][[ヘッセン州]]議会議員に当選する。[[1994年]][[ドイツ連邦議会]]総選挙に[[ハーナウ]]選挙区から立候補し当選する。[[1998年]]にCDUは敗北したが、カンターは再選を果たした。しかし、2000年ヘッセン州で起きた金銭スキャンダルの責任を取り議員辞職した。[[2005年]]ヴィースバーデン地方裁判所によって18ヶ月の[[保護観察]]処分の判決を受けた。しかし、[[ドイツ連邦最高裁判所]]はこの判決を無効と判断し、[[2006年]]ヴィースバーデン地方裁判所に差し戻した。