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==概念==
古代中国において[[玉門関]][[陽関]]が西の境界とされ、それよりも西方の国々が記録のうえに明確に現れたのは『[[史記]]』「[[フェルガナ|大宛]]伝」が最初だが、ここには西域の語はみえない。『[[漢書]]』にいたって初めて西域の語が現れ、西方の国々のことを記した「西域伝」が作られる。この西域伝では西域の地理について「南北に大山あり、中央に川あり、東西六千余里、南北千余里」と述べているので、[[タリム盆地]]、すなわち東トルキスタンをさしていることが明らかである。しかし、『漢書』西域伝には東トルキスタンの国々ばかりでなく、[[西トルキスタン]][[インド]][[イラン]]などの国々についても記されている。その後、中国歴代の[[正史]]のいくつかは西域伝を載せているが、その地理的範囲はすべて『漢書』と同じである。
 
==地理==
西域とはだいたい[[トルキスタン]]を指し、時には[[インド]][[西アジア]][[ヨーロッパ]]までを指すこともある。トルキスタンの国々はさらに[[パミール高原]]をはさんで東西に分けることができる。まず、[[東トルキスタン]](現在の[[新疆ウイグル自治区]])では、[[トルファン盆地]]([[伊吾]][[高昌]][[車師]]前部[[楼蘭]]など)・),[[ジュンガル盆地]](車師後部など)・),[[タリム盆地]]([[焉耆]][[亀茲]][[于闐]][[莎車]][[疏勒]]など)・),イリ地域([[烏孫]])の国々があり、[[西トルキスタン]](いわゆる[[中央アジア]])では、[[ソグディアナ]][[トハリスタン]]([[大宛]][[康居]][[大月氏]][[大夏]][[昭武九姓]])の国々がある。
 
==歴史==
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===楼蘭・姑師を服属===
[[元封 (漢)|元封]]元年([[紀元前110年|前110年]])、漢はたびたび楼蘭姑師などの小国に使者を妨害させられたので、従驃侯の[[趙破奴]]に命じて姑師を撃たせ、楼蘭王を捕虜とし、姑師を破った。これによって漢は西域の烏孫や大宛といった国々に対して威を振るうことができた。武帝は趙破奴を浞野侯に封じると、姑師を[[車師]]前後王国及び山北六国に分けた。
 
=== 2度の大宛討伐 ===
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===五将軍による匈奴征伐===
[[昭帝 (漢)|昭帝]](在位:[[紀元前86年|前86年]] - [[紀元前74年|前74年]])の末年、匈奴の[[壺衍鞮単于]](在位:[[紀元前85年|前85年]] - [[紀元前68年|前68年]])は烏孫を攻撃し、車延悪師の地を取った。このとき[[烏孫公主]](解憂)は上書して漢に救援を要請したが、漢では昭帝が[[崩御]]していたので返事ができなかった。[[宣帝 (漢)|宣帝]](在位:[[紀元前73年|前73年]] - [[紀元前49年|前49年]])が即位すると、昆弥(こんび:烏孫の君主号)の翁帰靡(こうきび)はふたたび上書して救援を要請した。[[本始]]2年([[紀元前72年|前72年]])、漢は要請に応じて、祁連将軍の[[田広明]],[[度遼将軍]]の[[范明友]],[[前将軍]]の[[韓増]],[[後将軍]]・[[蒲類将軍]]の[[趙充国]],[[雲中郡|雲中]][[太守]]・虎牙将軍の[[田順]]の五将軍を派兵した。[[校尉]]の[[常恵]]は烏孫西域の兵を指揮し、翁帰靡は自ら翕侯(きゅうこう:月氏系の諸侯)<ref>翕侯(きゅうこう)とは、月氏における諸侯の意であるが、このとき烏孫の地にも翕侯がいた。それは烏孫が[[イリ地方]]に割拠する前に大月氏がイリ地方にいたので、大月氏が烏孫に侵攻された際、いくらかの月氏人がイリ地方に取り残されたためである。</ref>以下5万余騎を率いて西方から入り、総勢20数万が匈奴を攻撃した。五将軍にはあまり戦功がなかったが、常恵が指揮する烏孫軍には戦功があったので、常恵は長羅侯に封ぜられた。しかし、匈奴の被害は甚大で、烏孫を深く怨むこととなり、その冬、壺衍鞮単于は烏孫を報復攻撃したが、その帰りに大雪にあって多くの人民と畜産が凍死した。さらにこれに乗じて北の[[丁零|丁令]]、東の[[烏桓]]、西の烏孫に攻撃され、多くの死傷者が出て、多くの畜産を失った。これにより匈奴に従っていた周辺諸国も離反し、匈奴は大虚弱となった。
 
===西域都護の設置===
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=== 新の時代 ===
[[天鳳]]2年([[15年]])、[[新]]の[[王莽]](在位:[[8年]] - [[23年]])は五威将の[[王駿 (新)|王駿]],西域都護の[[李崇]]を派遣し、[[戊己校尉]]の[[郭欽 (新)|郭欽]]を率いさせて西域に出兵させた。西域諸国は皆郊外で出迎え、兵士に穀を送ったが、焉耆国が詐降して兵を集めて自衛したので、王駿らは[[莎車]]国亀茲国の兵7千余人を率いて、数部に分かれて焉耆国に入った。焉耆国は伏兵で王駿らを遮り、姑墨国尉犁国危須国の兵も寝返ったので、共に王駿らを襲撃し、皆殺しにした。戊己校尉の郭欽は別に兵を率いており、後で焉耆国に至ったため、焉耆国の兵がまだ還ってこないうちに、郭欽はその老弱を攻撃して殺し、帰還した。王莽は郭欽を封じて剼胡子とした。西域都護の李崇は余士を収めて、亀茲国を維持して帰還した。数年後、王莽が死に、李崇も没すると、中国と西域の国交は途絶えてしまう。
 
===後漢の時代と莎車王賢===
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[[ファイル:Western Regions 1st century (ja).png|thumb|350px|[[1世紀]]から[[2世紀]]頃の西域諸国。]]
===班超の西域平定===
永平18年([[75年]])、明帝が[[崩御]]すると、これに乗じて焉耆国は漢に叛いて西域都護の[[陳睦]]を殺害し、亀茲国と姑墨国は[[疏勒]]国を攻撃した。疏勒国にいた班超は盤橐城を守り、疏勒王の忠とともにこれを防いだが、不利と見て一旦于窴国に退いた。ふたたび疏勒国に戻った頃には疏勒城盤橐城の両城が亀茲国によって陥落しており、疏勒国は[[尉頭]]国と寝返っていた。班超はすぐに疏勒国の反逆者を斬り、尉頭国を撃破して、疏勒国を取り戻した。[[建初 (漢)|建初]]9年([[84年]])、班超は疏勒国と于窴国の兵を発して莎車国を攻撃した。莎車国は陰で疏勒王の忠と密通しており、疏勒王忠はこれに従って反き、西の烏即城に立てこもった。すると班超はその府丞の成大を立てて新たな疏勒王とし、疏勒王忠を攻撃した。これに対し[[ソグディアナ]]の[[康居]]が精兵を派遣してこれを救ったので、班超は降せなかった。この時、[[クシャーナ朝]](以前の[[大月氏]])が新たに康居と婚姻を結び、親密な関係となったため、班超は使者を送って多くの祝い品をクシャーナ王に贈った。これによって康居王が兵を撤退させ、忠を捕えたので、烏即城は遂に班超に降った。
 
===甘英の西方見聞===
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===西晋と五胡十六国時代===
[[太康 (晋)|太康]]年間([[280年]] - [[289年]])、焉耆王の[[龍安]]は[[西晋|晋朝]]に侍子を遣わした。龍安が死に、子の[[龍会]]が焉耆王となると、父の仇であった亀茲王の白山を討ち滅ぼして自らが亀茲王となり、子の[[龍熙]]を焉耆王として本国を統治させた。龍会は西域に覇を唱え、[[パミール高原|蔥嶺]]以東の諸国は焉耆・亀茲国の支配下となった。しかし、龍会は亀茲国人の羅雲に殺された。
 
[[前涼]]の[[張駿]]は[[沙州]][[刺史]]の[[楊宣]]を西域に派遣した。楊宣は部将の[[張植]]を前鋒とし、焉耆国を攻撃した。焉耆王の龍熙は防戦したが、張植に敗北した。龍熙はまた衆を率いて遮留谷にて要撃するも、ふたたび敗れてしまい、遂に楊宣に降った。また、亀茲国と鄯善国をも征伐し、西域はみな前涼に降った。鄯善王の元孟は張駿に娘を献じ、焉耆前部や[[于闐]]王も遣使を送って方物を貢納してきた。前涼は西域長史を置いて西域の統制を強めた。