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{{人名の曖昧さ回避|しよ こん}}
== 徐琨 (後漢) ==
'''徐 琨'''(じょ こん、生没年不詳)は、[[中国]]の後漢末期の[[武将]]。呉郡富春県の人。徐真と[[孫堅]]の妹の子。徐矯・徐祚・徐夫人(陸尚の妻、後に[[孫権]]の妻)の父。
 
徐家は呉郡の豪族であり、元々孫家と交流があったため、徐真は孫堅の妹を娶り徐琨が生まれた。徐琨は若い内から郡の役所に務めていたが、孫堅が[[董卓]]討伐の兵を起こすと、部曲を引き連れて孫家に付き従い、功績を立てて偏将軍となった。
 
後に[[孫策]]が兵を起こすと徐琨もそれに従軍した。孫策は[[揚州]][[刺史]]の[[劉ヨウ|劉繇]]との戦いで、その部将の[[樊能]]・[[于糜]]の守る横江津を攻撃したとき、まず[[張英]]の守る当利口の攻略に取り掛かったが、そのための軍船が不足していた。急いで当利口の張英らを破らなければ劉繇の水軍が来る状況にあった。徐琨は軍中にあった母からの提案を受けて、蘆を用いた簡易の筏を用いて、強引に渡河して奇襲をかける作戦を進言する。孫策は徐琨の進言を採用し、結果、孫策軍は張英を破ることができ、この結果、孫策は劉繇と[[サク融|笮融]]を追って江南での覇業の第一歩を築くことが出来た。
 
孫策によって[[丹陽]][[太守]]に任命された。[[袁術により]]の下で[[広陵]]あっ赴任していた[[呉景]]が孫策の旗下に加わると、呉景が丹陽太守となり、徐琨は督軍中郎将に任命された。このとき孫策は袁術から任命された丹陽太守である[[袁胤]]を徐琨に討伐させていたが、徐琨が丹陽太守となると、孫策は徐琨の兵力が大きぎることを心配し手元に置いておくほうが何かと都合がいいと考え、かつて丹陽を統治したこともあり、民に慕われていた呉景に交代させたという(『江表伝』)。
 
その後も戦いで功績を重ねて平虜将軍・広徳侯に昇ったが、孫策が[[黄祖]]と戦ったときに流れ矢により戦死したという<ref>呉志「徐夫人伝」では「孫策に従って[[廬江]]太守[[李術]]を破った」とあるが、李術の乱は孫策死後のことであり、「孫策」と「孫権」または「李術」と「[[劉勲]]」が混同している可能性があるため、黄祖との戦いが具体的にどの戦いを指しているのかは不明である。</ref>。
 
子の徐矯(徐夫人の兄)が跡を継ぎ、広徳侯となった。山越平定で活躍し偏将軍となったが、徐夫人より早く亡くなった。子が無かったため、その弟である徐祚が跡を継いだ。戦功を挙げて蕪湖の督平魏将軍となった。
 
==脚注==