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[[Image:Karl Ludwig Friedrich, Grand Duke of Baden (July 8, 1786 in Karlsruhe-December 8, 1818 in Rastatt).jpg|right|thumb|200px|バーデン大公カール]]
'''カール'''(<span lang="de" xml:lang="de">'''Karl'''</span>, [[1786年]][[7月8日]] - [[1818年]][[12月8日]])は、[[バーデン (領邦)|バーデン大公国]]の第2代[[大公]](在位:[[1811年]] - [[1818年]])。全名は'''カール・ルートヴィヒ・フリードリヒ'''('''<span lang="de" xml:lang="de">Karl Ludwig Friedrich</span>''')。初代バーデン大公[[カール・フリードリヒ (バーデン大公)|カール・フリードリヒ]]の孫。
 
[[1786年]][[7月8日]]、バーデン=ドゥルラハ辺境伯[[カール・フリードリヒ (バーデン大公)|カール・フリードリヒ]]の長男である[[カール・ルートヴィヒ・フォン・バーデン|カール・ルートヴィヒ]]と、その妃であった[[ヘッセン=ダルムシュタット]]方伯領|ヘッセン=ダルムシュタット方伯]][[ルートヴィヒ9世 (ヘッセン=ダルムシュタット方伯)|ルートヴィヒ9世]]の娘[[アマーリエ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット|アマーリエ]](1754年 - 1832年)の間に第6子(次男)として[[カールスルーエ]]で生まれた。兄のカール・フリードリヒはこのとき既に歿していたため、[[1801年]]に父が[[スウェーデン]]で事故死すると[[法定推定相続人]]となった。
 
バーデンは[[1803年]]に[[選帝侯]]となり、さらに[[1806年]]に[[神聖ローマ帝国]]が解体すると大公国となった。[[1811年]]に祖父が死去するとカールは大公位に即いた。当初バーデンは[[ライン同盟]]に加盟していたが、[[1813年]]の[[ライプツィヒの戦い]]の後は[[フランス]]から離れた。[[クレメンス・メッテルニヒ]]が主宰した[[ウィーン会議]]に参加し、[[1815年]]に成立した[[ドイツ連邦]]の原加盟国となった。
 
カールは[[1818年]][[12月8日]]に[[ラシュタット]]で死去した。息子はともに夭逝していたため、叔父の[[ルートヴィヒ1世 (バーデン大公)|ルートヴィヒ1世]]が大公位を嗣いだ。
 
素性不明の捨て子[[カスパー・ハウザー]]に関する噂の一つに、カスパー・ハウザーは[[1812年]]に誕生後すぐに死去したとされたカールの長男であったというものがある。
 
== 子女 ==
カールは[[1806年]][[4月8日]]に[[ナポレオン・ボナパルト]]の養女である[[ステファニー・ド・ボアルネ]](1789年 - 1860年)と[[パリ]]で結婚した。彼女との間には以下の子供をもうけた。
* [[ルイーゼ・フォン・バーデン|'''ルイーゼ'''・アマーリエ・シュテファニー]] (1811年 - 1854年、[[スウェーデン]]王子[[グスタフ (ヴァーサ公)|グスタフ]]妃)
* 男子 (1812年9月10日 - 1812年10月16日)
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* [[マリー・フォン・バーデン|'''マリー'''・アマーリエ・エリーザベト・カロリーネ]] (1817年 - 1888年、[[ハミルトン公ウィリアム・ハミルトン]]妃)
 
{{先代次代|[[バーデン君主一覧 (領邦)|バーデン大公]]|[[1811年|1811]] - [[1818年|1818]]|[[カール・フリードリヒ (バーデン大公)|カール・フリードリヒ]]|[[ルートヴィヒ1世 (バーデン大公)|ルートヴィヒ1世]]}}
 
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