「堀口一史座」の版間の差分

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==棋歴==
*第18回(1995年度後期)[[新進棋士奨励会|奨励会]]三段リーグで1位(14勝4敗)の成績を収め、プロ入りした。
 
*プロ3年目の1998年度、[[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯戦]]で決勝進出。決勝の相手は[[羽生善治]]四冠(当時)であった。堀口の先手で[[横歩取り]]模様の出だしで14手まですらすらと進んだが、15手目、通常▲3四飛と横歩を取る一手のところで堀口の手が止まり、序盤早々に時間を使う。そして結局、横歩を取らずに飛車を2八に引き、[[相掛かり]][[腰掛銀]]の戦形になった。結果は羽生の勝ちで、堀口は準優勝に終わる。
 
*第30回(1999年度)[[新人王戦 (将棋)|新人王戦]]で準優勝(優勝者は[[藤井猛]])。
 
*公式戦として1期目の第8期(2000年度)[[銀河戦]]で、本戦(ブロック)で[[米長邦雄]]、[[島朗]]らを破り15連勝。決勝トーナメントでは[[佐藤康光]]、[[森内俊之]]らを下して準優勝(優勝は羽生善治)。
 
*[[朝日オープン将棋選手権#全日本プロ将棋トーナメント|全日本プロ将棋トーナメント]]を発展させ、準タイトル戦としてスタートした2001年度の[[朝日オープン将棋選手権]]において、決勝五番勝負で[[杉本昌隆]]を3-1で破り、初代チャンピオンとなった。祝勝会でのスピーチでは、「朝日オープンはお金がいいので」というあからさまな発言をした<ref>このスピーチは、[[囲碁・将棋ジャーナル]]で紹介された。朝日オープンの優勝賞金は、破格の2000万円であった。また、当時、賞金額が公表されていた棋戦は、竜王戦と朝日オープンだけであった。</ref>。翌年、[[深浦康市]]を迎えた初防衛戦では、頭を五厘刈りにし決意の程を見せるも、1-3で敗北する。
 
*第66期(2002年度)C級1組[[順位戦]]と第67期B級2組順位戦で2年連続昇級を決め、B級1組に昇級。
 
*2005年9月2日の[[順位戦]]B級1組[[青野照市]]との対局で、56手目の一手に、昼食休憩を挟む5時間24分の記録的な[[長考|大長考]]をしたことで話題となった。順位戦の持ち時間は6時間であるため、持ち時間の大半を費やした計算になる。局面は、[[角換わり]]の先後同形からの激しい攻め合いの途中であった。結果は、76手までで堀口の勝ち。後日「[[囲碁・将棋ジャーナル]]」に出演した際、「長考できたのは気力が充実していたということだ」と語った。
 
==棋風==
*[[居飛車]]党であり、対[[振り飛車]]では自玉を固める将棋が多く、相居飛車では[[矢倉囲い|矢倉]]、[[相掛かり]]、[[横歩取り]]、[[角換わり]]などを一通り指しこなす。
*長考派である一方、早指し戦にも強い。
 
==人物==
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*「一史座(かずしざ)」という名前は[[ガイウス・ユリウス・カエサル]](シーザー)に由来する。
*将棋を覚えたのは10歳ぐらいの頃で、きっかけは、母親の実家で将棋盤を見たことである<ref name="nenkan1998">平成10年版「将棋年鑑」</ref>。プロ棋士になった人物としては遅いスタートであった。
*四段昇段した際、「(年齢制限規定などで)プロを断念したり、これからも苦しい戦いを続ける仲間がいる中で祝賀会に参加するわけにはいけない」として奨励会最終日に奨励会幹事による恒例の昇段祝賀会を辞退した(実際、<ref>この時退会した4人の中に、後にアマチュアで活躍しプロ編入試験でプロ棋士になった[[瀬川晶司]]ら4人の三段年齢制限で退会してる)た</ref>。なお、祝賀会の辞退を決心したのは、半年前に自らが次点で昇段を逃したときであった<ref>「[[将棋世界]]」2000年1月号付録</ref>。
*将棋をゲームと割り切る棋士が多い中、インタビューにおいて自己の内面性と将棋との関連について語るなど思索的な面をみせる。特に追い詰められたような状況では、指し手に必ずその人の内面性が出ると言い切り、哲学書などにあたって常に内面性を鍛えることを怠らない。その独特な思想体系から、"将棋界の哲人"と呼ばれる。{{要出典}}
*愛読している作家は、[[レフ・トルストイ|トルストイ]]と[[ドストエフスキー]]<ref name="nenkan1998"/>。