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[[File:Babenberger Stammbaum.jpg|thumb|バーベンベルク家系図]]
'''バーベンベルク家'''({{lang-de-short|'''Haus Babenberg'''}})は、[[フランケン]]地方の[[バンベルク]]、現在の北[[ボヘミア]]を出自とする一族。オーストリアの[[辺境伯]]そして[[部族大公]]として[[976年]]から[[1248年]]の間、断絶によって[[ハプスブルク家]]に代わられるまで[[オーストリア]]を支配した。
 
== バーベンベルク家前史 ==
バーベンベルク家は、フランス王家である[[カペー]]の祖でもあるロベールを遠祖とする。最も古く歴史に残っているのは、9世紀初めに現在の[[ヘッセン州]]と[[テューリンゲン州]]の間の地域を支配したグラープフェルト伯のポッポ({{interlang|en|Poppo of Grapfeld|Poppo I}})である。ポッポの息子のハインリヒ({{interlang|en|Henry of Franconia|Heinrich I}})は、[[フランケン公]]にして[[辺境伯]]と言われ、[[886年]]には[[ノルマン人]]と戦っている。同じく息子のポッポ(テューリンゲンのポッポ; {{interlang|en|Poppo, Duke of Thuringia|Poppo II}})は[[880年]]から[[892年]]まで[[テューリンゲン辺境伯]]に任じられていたが、[[ドイツ]]の[[カロリング朝]]の東フランク王アルヌルフがライバルのコンラディン家を支持したため衰退した。
 
バーベンベルク家はハインリヒ公の3人の息子たちにより、[[マイン川]]上流域の[[バンベルク]]に城を築いたことで家名とした。バンベルク市は、バーベンベルク家の古い城を囲んでつくられたのである。
 
==バーベンベルク抗争==
バーベンベルク家はライバルのコンラディン家との争いの中で、マイン川中流域に互いに勢力を伸ばしていった。この一連の抗争は「バーベンベルク抗争」と呼ばれ、10世紀初頭のルートヴィヒ小児王の時代(899-911)の間 911年)まで続いた。906年、フリッツラーの戦いにおいてコンラディン家によって決定的な敗北を被り、フランケン地方の支配を失った。また、フランケン公位はコンラディン家のものとなった。
906年、フリッツラーの戦いにおいてコンラディン家によって決定的な敗北を被り、フランケン地方の支配を失った。また、フランケン公位はコンラディン家のものとなった。
 
 
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[[Category:ドイツ貴族の家系]]
[[Category:オーストリアの貴族]]