「クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
HRoestBot (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる 追加: pl:Scypion Metellus
m編集の要約なし
1行目:
[[ファイル:Silver denarius of Metellus Scipio 47 46 BCE.jpg|200px|thumb|メテッルス・スキピオを描いた硬貨]]
'''クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカ'''('''{{lang-la|Quintus Caecilius Metellus Pius Scipio Nasica}}''', [[紀元前100年]]または[[紀元前98年]]頃 - [[紀元前46年]][[4月]])は、[[共和政ローマ]]期の政治家である。[[ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)|ローマ内戦]]では[[娘婿]]に当る[[グナエウス・ポンペイウス]]を中心とした[[元老院派]]に属し、中心的な役割を果たした。古代ローマで最後に活躍した「[[スキピオ]]」とも称される。
 
==略歴==
メテッルス・スキピオは、祖父が[[紀元前111年]]に[[執政官]]を務めた[[プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・セラピオ]]であり、父プブリウスは[[プラエトル|法務官]]に選出から間もなく亡くなったが、母リキニア・クラッサ(Licinia Crassa)は[[ルキウス・リキニウス・クラッスス]]の娘に当るように、名門の血筋の出であった。
 
メテッルス・スキピオは父のはとこに当る[[クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス]]([[:en:Quintus Caecilius Metellus Pius|Quintus Caecilius Metellus Pius]])によって登用され、この時期にメテッルスと名乗ったとされる。また、メテッルス・スキピオは[[マメルクス・アエミリウス・レピドゥス・リウィアヌス]]([[:en:Mamercus Aemilius Lepidus Livianus|en]]、紀元前77年の執政官)の娘アエミリア・レピダと結婚したが、当初は[[マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス|マルクス・ポルキウス・カト]]と婚約していたアエミリアを奪っての結婚であったため、カトから激しい批判を浴びた。
 
メテッルス・スキピオはアエミリア・レピダの娘コルネリアを政略結婚の材料として、最初は[[マルクス・リキニウス・クラッスス]]の息子[[プブリウス・リキニウス・クラッスス|プブリウス]]へ嫁がせて、プブリウスが[[カルラエの戦い]]で死去した後は、[[グナエウス・ポンペイウス]]の5番目の妻として再婚させた。なお、ポンペイウスとコルネリアは30歳以上も年が離れていたが、仲は睦まじかったとされる。
 
この間にも[[クルスス・ホノルム|顕職の経験]]を積み、[[紀元前59年]]に[[護民官]]、[[紀元前55年]]頃に[[プラエトル]]法務官、[[紀元前52年]]にポンペイウスと共に[[コンスル]](|執政官]]となった。
 
[[紀元前49年]]1月、[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]が軍を率いてローマへ侵攻したことで内戦が勃発した。メテッルス・スキピオは反カエサルの立場から[[元老院派]]に属して、任地であった[[シリア属州]]や[[アシア属州]]で戦争に備えて食糧や軍資金、兵士を調達したものの、過酷な徴発であったとされる。