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[[エクィテス]]に属する家系で、父祖にわたってローマの高官経験者のいない「[[ノウス・ホモ]]」であった。[[紀元前60年]]に[[クァエストル]](財務官)、[[紀元前55年]]には[[プレブス]]出身者として[[護民官]]にそれぞれ任命され、護民官時代は「[[グナエウス・ポンペイウス]]及び[[マルクス・リキニウス・クラッスス]]に5年期限の属州総督としてローマ軍団を率いる権限を付与する」という法(「トレボニア法」)を可決させた。紀元前54年よりガリア総督カエサルの[[レガトゥス]]としてガリアへ赴き、前54年には[[ローマによるブリタンニア侵攻 (紀元前55年-紀元前54年)|ブリタンニア遠征]]や[[アレシアの戦い]]等で活躍した。
 
[[紀元前49年]]からのローマ内戦では、マッシリア(現:[[マルセイユ]])の攻略を[[デキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌス]]と共に担当([[マッシリア包囲戦]])。[[紀元前48年]]、[[プラエトル]]に選出。紀元前47年から[[小ポンペイウス]]などの[[ヒスパニア]]に残る[[元老院派]]の討伐に向かったものの、不首尾に終わった。
 
[[紀元前45年]]に[[コンスル|サブコンスル]]へ選出。[[紀元前44年]][[3月15日]]に起こったカエサル暗殺事件の際は、[[ポンペイウス劇場]]の外に[[マルクス・アントニウス]]を引き付けておく役割を果たした。
 
[[紀元前43年]]から[[アシア属州]]総督となったものの、[[プブリウス・コルネリウス・ドラベッラ]]によって殺害された。