「ギリシャ第一共和政」の版間の差分

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<ref name="S243-5">[[#周藤・村田(ギリシアを知る辞典)|周藤、村田(2000)、pp.243-245]].</ref> <ref name="G286">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.286]].</ref><ref name="R38">[[#クロッグ(ギリシャの歴史)|リチャード・クロッグ、(2004)p.38]].</ref>{{#tag:ref|カポディストリアスは決して独裁主義者ではなく、元々は[[ウィーン会議]]で危険視されるほどの自由主義者であった<ref name="S243"/>。彼が憲法を停止、臨時政府を解散させたのは政治的に未熟なギリシャ人たちに憲法を与えることが危険な賭けであると判断しており、自らの意思伝達を確実に行い、ギリシャ人たちを成熟させようと考えたからであった<ref name="G244">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.244]].</ref>。そして独立戦争時の指導者たちを任用しなかったことにはただ単に『トルコ人に代わって政治を行う』だけであり、『キリスト教徒のトルコ人』と揶揄された人々がこれまでに得た利権を手放さず、また、西欧諸国には受け入れられないオスマン帝国下でオスマン帝国の体制で成長していたギリシャの将来に危惧を抱いているいう理由も存在した<ref name="R39">[[#クロッグ(ギリシャの歴史)|リチャード・クロッグ、(2004)p.39]].</ref>。|group=#}}。
 
一方、ギリシャの自治国化を拒絶したオスマン帝国の態度は1827年[[10月20日]]、[[ナヴァリノの海戦]]を生じることとなったが、三国の艦隊がオスマン艦隊に勝利、これによりギリシャ独立戦争の雌雄は決した<ref name="S241">[[#周藤・村田(ギリシアを知る辞典)|周藤、村田(2000)、p.241]].</ref><ref name="G284"/><ref name="R36"/>。しかし、1828年、[[露土戦争 (1828年)|露土戦争]]が勃発したため、ギリシャの国境設定は後回しにされることとなった{{#tag:ref|当時確定していたギリシャ領はペロポネソス半島のみであったが、ここには列強の思惑が絡んでおり、列強はギリシャをできる限り小国にしてしまおうと考えており、ギリシャ評議会『パンエリオン』にオスマン帝国との直接交渉する権限を与えていなかった。しかし『パンエリオン』は三国に領土の拡張を訴えながらも、[[コリントス湾]]北のオスマン帝国領へ派兵、これを占領して既成事実の形成を試みたりしていた<ref name="S245">[[#周藤・村田(ギリシアを知る辞典)|周藤、村田(2000)、p.245]].</ref>。<ref name="G287">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.287]].</ref>|group=#}}。露土戦争終了後の1829年、[[アドリアノープル条約]]により、ギリシャの自治国の構築が決定、1830年、『ロンドン議定書』により、三国の保護下ながらギリシャは独立を達成、ギリシャを王国化することが決定されたが、国境の画定は1832年5月まで延期された<ref name="S246">[[#周藤・村田(ギリシアを知る辞典)|周藤、村田(2000)、p.246]].</ref><ref name="G285"/>{{#tag:ref|この時、確定した国境はペロポネソス半島だけではなく、中央ギリシャ(ステレア・エラダ)のアルタ=ヴォロスまでで、カポディストリアスが主張したものとほぼ同じであったが、カポディストリアスがすでに暗殺された後の話である<ref name="S246"/>。|group=#}}
 
{| class="toccolours" style="float: left; margin-left: 1em; margin-right: 2em; font-size: 85%; background:#c6dbf7; width:30em; max-width: 40%;" cellspacing="5"
| style="text-align: left;" |奴(カポディストリアス)はギリシャを破滅させた。奴はギリシャを西洋風(フランク風)に変えちまい、ギリシャは最初、西洋、トルコの割合が3対7だったのを五分五分にしてしまい、さいごには完全に西洋風にしちまいやがった。
|-
| style="text-align: left;" | セオドロス・コロコトロニス、1836年に語る<ref name="R38"/>>。
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カポディストリアスの政治により排除された独立戦争時のギリシャ指導者たちはカポディストリアスの政治が独断行行為と考えており、その不満は日を増すごとに増加した<ref name="S246"/>{{#tag:ref|ただし、不満を抱いていたのは独立戦争時の指導者たちなどで、一般市民の中では『ヤニスおじさん(ヤニスはイオアニスの愛称)』と呼ばれ、独立戦争時の苦難の日々から救い出してくれる人物として人気があった<ref name="S246"/>。|group=#}}。また、カポディストリアスの元ロシア官僚であるという背景はイギリス、フランス両国にカポディストリアスがロシアを優遇させるのではないかという危惧を抱かせていた。{{#tag:ref|『ギリシアを知る辞典』ではカポディストリアスがロシアの外務次官を辞任、さらに直接使えていたロシア皇帝[[アレクサンドル1世]]が死去したため、これが払拭されたとして否定しており<ref name="S242">[[#周藤・村田(ギリシアを知る辞典)|周藤、村田(2000)、p.242]].</ref> 、『ギリシア史』ではカポディストリアスの親ロシア的背景と『ロシア派』を優遇しているということでロシアが優遇される可能性を警戒したとして肯定している<ref name="G287">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.287]].</ref> 。|group=#}}そのため、カディストリアスへの攻撃が増大、1930年にはペロポネソス南部、マニの名望家、マブロミハリス家のペトロベイスはナフプリオンにおいて議会が召集、カポディストリアスによって廃止された国民議会憲法の復帰が議論され、さらに[[イドラ島]]では蜂起への動きを見せた。これに対し、カポディストリアスはペトロベイスを逮捕したが、ペトロベイスの一族はこれに反発、1831年10月19日、カポディストリアスは暗殺された<ref name="S247">[[#周藤・村田(ギリシアを知る辞典)|周藤、村田(2000)、p.247]].</ref><ref name="G287"/><ref name="R39"/>。
 
カポディストリアスの死後、弟のアウグスティノス、軍事指導者コロコトロニス、政治家コレッティスらにより暫定統治委員会が形成されたが<ref name="G287"/>、内部対立が生じ、これは内戦へ至ることとなった。1832年春、コレッティスの攻撃により、アクグスティノスは委員会から離脱、さらにコロコトロニスは敗北した。これらの勝利をうけてコレッティスは7月、プロニアで議会を召集、憲法制定を画策したが、列強三国はこれを認めなかった。そのため、コレッティスの部隊は議会を襲撃、再びギリシャには不穏な空気が流れることとなったが、これはフランス軍が鎮圧した<ref name="G288">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.288]].</ref>。