「フォルリ」の版間の差分

オルデラッフィ家の最も知られる人物は、1466年から1480年までフォルリのシニョーリであったピーノ3世オルデラッフィ([[:en:Pino III Ordelaffi|Pino III]])である。ピーノは無慈悲な人物であった。自身が新たな市壁と建築物を建て市を富ませ、芸術の後援者であったにもかかわらずである。彼は40歳になったばかりで毒殺された。そのときからフォルリの立場は偶発的に起こるオルデラッフィ家の他者との戦いで弱体化していき、教皇[[シクストゥス4世 (ローマ教皇)|シクストゥス4世]]が新たなシニョーリに実の甥ジローラモ・リアーリオ([[:en:Gerolamo Riario]])をつけるまで続いた。リアーリオは[[カテリーナ・スフォルツァ]]と結婚した。夫の死後、女領主として名をはせる女傑である。彼女はフォルリの独立時代最後を象徴する人物でもあった。1488年に[[ヴィスコンティ家]]に、1499年には[[チェーザレ・ボルジア]]によりフォルリは掌握された。チェーザレの死後、かつてないほど教皇に直接従属するようになった。
 
長期間にわたる歴史上のフォルリの不在は、1796年6月に終わる。[[フランス革命|フランス革命軍]]が市に入城し、1797年2月7日には[[ナポレオン]]がこの地にやってきた。19世紀、フォルリはイタリア統合の争いに一役を担う買った。[[ピエロ・マロンチェッリ]]と[[アウレリーオ・サッフィ]]([[:en:Aurelio Saffi]])がフォルリで生まれている。
 
1988年4月16日、テロリスト集団『[[赤い旅団]]』が、当時の首相[[チリアコ・デ・ミタ]]の助言者であった上院議員ロベルト・ルッフィッリをフォルリで殺害した。彼を追悼し、1989年に[[ボローニャ大学]]経済学部第二部(現在のボローニャ大学フォルリ分校)に彼の名がつけられた。
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