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'''長尾 邦景'''(ながお くにかげ、[[貞治]]年間([[1365年]]前後?)?) - [[宝徳]]2年[[11月12日_(旧暦)|11月12日]]([[1450年]][[12月16日]]))は、[[室町時代]]の[[武将]]。[[越後国]][[守護代]]。[[長尾氏|越後長尾家]]3代。[[長尾高景]]の嫡男で、[[長尾景房|景房]]の兄。子に[[長尾実景|実景]]。官位は[[上野国|上野]][[国司|介]]。[[法号]]・性景。
 
[[康応]]元年([[元中]]6年/[[1389年]])に[[佐渡国|佐渡]]遠征中に戦死した父に代わって[[家督]]を継ぎ、[[守護]][[上杉房方]]・[[上杉朝方|朝方]]・[[上杉房朝|房朝]]・[[上杉清方|清方]]に仕える。
 
[[上杉氏#越後守護上杉家|越後上杉家]]当主は在京する事が多く、守護代である[[長尾氏]]に権力が集中した。このため、守護としての実権を回復させようとする守護と現地の状況を把握している守護代の対立が絶えなかった。特に[[応永]]年間末には[[室町幕府]]から守護[[上杉頼方]]を通して越後の[[国人]]達に邦景討伐の[[御教書]]が出される騒ぎとなっている([[応永の乱_(越後国)|越後応永の大乱]])。このため、邦景は次第に越後上杉家から宗家である[[山内上杉家]]に入った[[関東管領]][[上杉憲実]](方の)に接近してその傘下に入る。[[嫡男]](嫡孫?)の実景の名乗りである「実」も憲実からの一字拝領と言われている。
 
後に憲実が[[鎌倉公方]][[足利持氏]]と対立した際には邦景は憲実を支持しており、[[正長]]元年([[1428年]])には6代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義教]]に対して持氏の動向が不穏であることを上申を行い、同年11月には義教より[[管領]][[畠山満家]]を通じて謝礼の[[太刀]]が贈られている。続いて[[永享]]7年([[1435年]])には邦景自らが[[上洛]]して義教に対して持氏討伐について意見を述べている。
 
やがて、憲実と持氏の対立の悪化によって[[永享の乱]]・[[結城合戦]]が相次いで勃発すると、邦景は憲実に援軍を派遣する。特に後者では[[結城氏]]討伐の命を受けた守護・上杉清方に嫡男・実景及び[[色部重長]]ら有力国人を補佐として付けて出陣させ、結城合戦における越後上杉軍の活躍に寄与し、邦景父子は将軍義教から功績を賞賛された。
 
ところが、清方の死後後を継いだ[[上杉房定]]は、宝徳2年([[1450(1450]])に本拠を[[京都]]から越後本国に移して邦景を抑えようと図り、邦景と対立する。折りしも房定は他の上杉一族の意向を無視して持氏の子・永寿王丸(後の[[足利成氏]])を次期関東管領に擁立しようと図った。これに対して邦景は持氏の遺児である永寿王丸は、自分の父を滅ぼした上杉一族を恨んでおり、これを復権させることは憲実をはじめとする関東の上杉氏一族を危険に晒す事になると諫言した。だが、これを山内上杉家の力を背景として主君の自分を軽んじているとみた房定は11月12日の邦景を捕らえて[[切腹]]を命じたのである。
 
[[信濃国|信濃]]に追われた実景は反乱を起こしたものの攻め滅ぼされ、守護代の地位は庶流の[[長尾頼景]](邦景の甥)に移った。だが邦景の危惧は不幸にも的中し、房定の後ろ盾で鎌倉公方に就任した足利成氏は、関東管領[[上杉憲忠]](憲実の子)を「父の仇」として殺害して上杉氏討伐の兵を起こして房定らを攻め、長く続く[[享徳の乱]]を引き起こすことになったのである。
 
{{先代次代|[[長尾氏|越後長尾氏(守護代家)当主]]||[[長尾高景]]|[[長尾頼景]]}}