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'''長尾 邦景'''(ながお くにかげ、[[貞治]]年間([[1365年]]前後
[[康応]]元年([[元中]]6年/[[1389年]])に[[佐渡国|佐渡]]遠征中に戦死した父に代わって[[家督]]を継ぎ、[[守護]][[上杉房方]]・[[上杉朝方|朝方]]・[[上杉房朝|房朝]]・[[上杉清方|清方]]に仕える。
[[上杉氏#越後守護上杉家|越後上杉家]]当主は在京する事が多く、守護代である[[長尾氏]]に権力が集中した。このため、守護としての実権を回復させようとする守護と現地の状況を把握している守護代の対立が絶えなかった。特に[[応永]]年間末には[[室町幕府]]から守護[[上杉頼方]]を通して越後の[[国人]]達に邦景討伐の[[御教書]]が出される騒ぎとなっている([[応永の乱_(越後国)|越後応永の大乱]])。このため、邦景は次第に越後上杉家から宗家である[[山内上杉家]]に入った[[関東管領]][[上杉憲実]](
後に憲実が[[鎌倉公方]][[足利持氏]]と対立した際には邦景は憲実を支持しており、[[正長]]元年([[1428年]])には
やがて、憲実と持氏の対立の悪化によって[[永享の乱]]・[[結城合戦]]が相次いで勃発すると、邦景は憲実に援軍を派遣する。特に後者では[[結城氏]]討伐の命を受けた守護・上杉清方に嫡男・実景及び[[色部重長]]ら有力国人を補佐として付けて出陣させ、結城合戦における越後上杉軍の活躍に寄与し、邦景父子は将軍義教から功績を賞賛された。
ところが、清方の死後後を継いだ[[上杉房定]]は、宝徳2年
[[信濃国|信濃]]に追われた実景は反乱を起こしたものの攻め滅ぼされ、守護代の地位は庶流の[[長尾頼景]](邦景の甥)に移った。だが邦景の危惧は不幸にも的中し、房定の後ろ盾で鎌倉公方に就任した足利成氏は、関東管領[[上杉憲忠]](憲実の子)を「父の仇」として殺害して上杉氏討伐の兵を起こして房定らを攻め、長く続く[[享徳の乱]]を引き起こすことになったのである。
{{先代次代|[[長尾氏|越後長尾氏(守護代家)当主]]||[[長尾高景]]|[[長尾頼景]]}}
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