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'''長野 憲業'''(ながの のりなり、生年不詳 - [[享禄]]3年[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]([[1530年]][[11月26日]])?)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将。官位は伊予守。[[上野国|上野]][[箕輪城]]城主。方斎?。
 
== 概要 ==
系譜関係は判然としないが、一説には[[長野尚業]](業尚)の子で、[[長野方業]](長野賢忠、厩橋長野氏)の兄。[[長野業氏]]、女子([[長尾景英]][[正室]])、[[長野業正]]、女子([[里見義尭]]正室)の父。初名は'''信業'''で、のちに[[上杉憲房 (戦国時代)|上杉憲房]]の一字を貰い受け憲業と名乗った。ただし、信業は憲業とは別人(兄弟)であるとしたり、業正は信業の子で憲業にとっては養子であるとされる場合もある。
 
[[文亀]]3年([[1503年]])、先代の尚業(業尚)が没し家督を継承する。[[関東管領]]である[[山内上杉家]]に仕え、[[長享の乱]]では[[上杉顕定]]に合力して[[扇谷上杉家]]の[[上杉朝良]]を屈服させることに貢献した。[[室町時代]]に上野に勢力を持っていた惣社長尾氏、白井長尾氏との抗争をくりひろげ、[[上州一揆]]の中心として[[上野長野氏|長野氏]]の戦国大名化にいそしみ、[[大永]]年間の後半においては両長尾氏をしのぐ勢力を築いた。享禄3年(1530年)、吾妻において戦死(『長年寺本長野系図』による。ただし、没年についても異説がある)。
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墓所は長年寺([[群馬県]][[高崎市]])。
 
== 関連項目 ==
* [[上杉氏]]
* [[上野長野氏]]
* [[長尾氏]]
 
{{デフォルトソート:なかの のりなり}}
[[Category:長野氏|のりなり]]
[[Category:戦国武将|なかののりなり]]
[[Category:1530年没|なかののりなり]]