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Tajima73 (会話 | 投稿記録)
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== 概略 ==
鎌倉初期から[[吾妻鏡]]などの資料に、[[御家人]]として市河五郎や市河高光などの名が見える。この[[市河高光]]は甲斐の市河荘を[[本貫|本貫地]]とし、信濃国[[船山郷]](現在の[[長野県]][[千曲市]])に領地を持っていた事が明らかとなっている。
 
その後、鎌倉中期に信濃国志久見郷(長野県下高井郡北部)の[[地頭]]職を得た[[市河重房]]は、その地を実質的に支配する[[中野忠能]]と縁戚関係を結び、最終的に中野氏を被官化することで志久見郷を掌握したと考えられている。ただ、市河重房と前述の市河高光の関係は、未だ判明していない。
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ただ、「信濃の一宮」として信仰を集める[[諏訪神社]]の記録(諏訪御符礼之古書)には、宝徳4年(1452年)から長享2年(1488年)までの間に、市河氏が頭役(諏訪祭礼の世話役)を7回勤めたことが残されており、この時期も一定の勢力を維持していたことが推測できる。また「栄村史」には、高梨氏の圧力により「志久見郷に押し込められていた」との推論が記載されている。
 
室町時代後期になると、北信濃に影響力を持った越後守護上杉氏の重臣として藤原姓の市河氏が現れ、越後国にも所領を有していたことが分かる。しかし越後守護[[上杉房能]]と守護代[[長尾為景]]が対立して越後国の内乱である「[[永正の乱]]」が起こると、市河氏は守護方に味方して敗北したため越後国の所領を失った。永正6年(1509年)、[[関東管領]][[上杉顕定]]が養子の[[上杉憲房 (戦国時代)|上杉憲房]]軍を先発させた時に、迎え撃った長尾為景([[上杉定実]])方として市河甲斐守の名が登場する。この戦いで憲房の軍は撃退するも、後続の顕定率いる大軍により越後は制圧され、市河氏も志久見郷に逼塞を余儀なくされる。翌年、顕定は[[長森原の戦い]]で敗死するが、この時の戦いに市河氏が参陣した資料的な裏づけは無い。
 
戦国時代には天文年間から甲斐国の武田氏が[[信濃侵攻]]を行い領国を拡大し善光寺平から北信地域にまで進出すると、[[小県郡]]の[[村上義清]]ら北信豪族を後援した越後国の長尾氏(上杉氏)との抗争が激化した(甲越対決、[[川中島の戦い]])。
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== 脚注 ==
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<references />
 
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