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[[ファイル:Germaine de Foix1.jpg|thumb|ジェルメーヌ・ド・フォワ]]
'''ジェルメーヌ・ド・フォワ'''(Germaine de Foix, [[1488年]] - [[1538年]][[10月18日]])は[[アラゴン王国|アラゴン]]王[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド2世]]の2の妻で、アラゴン、[[シチリア王国|シチリア]]、[[ナポリ王国|ナポリ]]、[[ナバラ王国|ナバラ]]の王妃。[[スペイン語]]名は'''ヘルマナ'''(Germana de Foix)。[[フランス王国|フランス]]貴族[[フォワ]]伯家の出身で、父は[[ジャン・ド・フォワ (ナルボンヌ子爵)|ナルボンヌ子爵ジャン・ド・フォワ]]、母はフランス王[[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]]の姉マリー・ドルレアン。弟[[ガストン・ド・フォワ (ヌムール公)|ガストン・ド・フォワ]]はフランスの将軍として活躍した。
 
[[1504年]]に先妻である[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]女王[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル]]を亡くした後、後継者問題に悩まされていたフェルナンド2世は、新たな男子をもうけようと翌[[1505年]]に異母姉[[レオノール (ナバラ女王)|レオノール]]の孫であるジェルメーヌと再婚した。[[1509年]]に生まれた息子フアンはすぐに夭逝し、以後は子供が得られなかった。
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ジェルメーヌとの再婚は、一方では[[ナバラ王国]]の獲得につながった。ジェルメーヌの祖母[[レオノール (ナバラ女王)|レオノール]]はナバラ女王であり、父ナルボンヌ子爵ジャンはナバラ王位を要求して内乱を起こしたことがあった。ジャンの唯一の男子であったヌムール公ガストンが[[ラヴェンナの戦い]]で戦死した[[1512年]]、フェルナンド2世はナバラ侵攻のため軍勢を派遣し、翌1513年にジェルメーヌの王位継承権に基づいてナバラ王即位を宣言、[[1515年]]に征服が完了した。ジェルメーヌの従姉であるナバラ女王[[カタリナ (ナバラ女王)|カタリナ]]と夫[[フアン3世 (ナバラ王)|フアン3世]](ジャン・ダルブレ)はフランスへ逃れた。
 
フェルナンド2世が[[1516年]]に亡くなると、王位に就いたのは孫[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カルロス1世]](のち神聖ローマ皇帝カール5世となる)だった。カルロスまだ若い義理の祖母ジェルメーヌを、ヨハン・フォン・ブランデンブルク=アンスバッハ({{enlink|Johann of Brandenburg-Ansbach|a=on|p=off}}, [[フリードリヒ5世 (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)|アンスバッハ辺境伯フリードリヒ]]の息子で[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]][[ヨアヒム1世 (ブランデンブルク選帝侯)|ヨアヒム1世]]の従弟)と結婚させることにし、2人は[[バルセロナ]]で式を挙げた。[[1523年]]、2人はカールにより[[バレンシア王国|バレンシア]][[副王]]とされた。
 
[[1526年]]にジェルメーヌはヨハンと死別したため、今度は[[カラブリア州|カラブリア]]公[[フェルナンド・デ・アラゴン (カラブリア公)|フェルナンド]](イタリア名フェルディナンド、フェルナンド2世が廃位した[[ナポリ王国|ナポリ]]王[[フェデリーコ1世 (ナポリ王)|フェデリーコ1世]]の王太だった)と再々3度目の結した。2人ジェルメーヌカラブリア公と共に引き続きバレンシア副王を務め、2人は芸術と音楽の後援者となった。[[1538年]]にジェルメーヌは亡くなるが、その後もカラブリア公は[[1550年]]に亡くなるまで副王を務めた。
 
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