「大宮町 (静岡県)」の版間の差分
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== 概要 ==
かつては[[駿河国]][[富士郡]]に属しており、主に[[富士山本宮浅間大社]]の[[門前町]]としての顔を持つ。
古くは甲駿国境に位置する[[大宮城]]を政治の中心として大宮は発達した。後に富士登山が広まるようになると、富士登山の宿坊地としての役割を持つようになる。富士登山の道者達は[[湧玉池]]で禊を行い、水垢離を行ってから登山を行う習慣があり、大宮はその禊の地としての宿坊地として発達した。また、[[吉原宿]](田子の浦)からの中継地点としての役割も担っていたと言われる。<ref>[http://museum.city.fuji.shizuoka.jp/hp/report/ 富士市立博物館]</ref>▼
平安時代には[[富士氏]]などの有力氏族が発祥しており、また市制施行での名称(富士宮市)としても「富士」を含んでいるなど「富士」という名称の名残が強い。
▲== 歴史 ==
戦国期の[[今川氏]]の支配下の時代には今川氏管理の下[[六斎市]]が開かれた。後に[[今川氏真]]による富士大宮楽市令により[[楽市]]がこの地に広まり、商業が発達した。
大正時代は町内には芸者が歩き100人を超える程であったと言われる。<ref>遠藤秀男 『懐かしの富士宮』 〈羽衣出版〉、2009年、219頁</ref>芸者は主に「高しま屋」といった老舗を中心として活動していたが、時代の流れでその文化も途絶え、現在は高しま屋の[[長屋門]]しか残っていない。[[1932年]](昭和7年)の大火で大部分を消失したが、<ref>[http://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/k-shinrin/kihonkeikaku/2syo.pdf 第Ⅱ章 富士宮市の環境の課題と将来像]</ref>それも数年で復興する程であった。
▲後に富士登山が広まるようになると、富士登山の宿坊地としての役割を持つようになる。富士登山の道者達は[[湧玉池]]で禊を行い、水垢離を行ってから登山を行う習慣があり、大宮はその禊の地としての宿坊地として発達した。また、[[吉原宿]](田子の浦)からの中継地点としての役割も担っていたと言われる。<ref>[http://museum.city.fuji.shizuoka.jp/hp/report/ 富士市立博物館]</ref>
== 脚注 ==
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