「九戸政実」の版間の差分

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政実としては、恩有る南部宗家を晴継暗殺の容疑者である南部信直が継いだことに大きな不満を抱き、自領へと帰還する。
 
=== 主家に対し挙兵九戸政実の乱 ===
天正14年([[1586年]])には信直に対して自身が南部家の当主であると公然と自称するようになる。このような政実の姿勢は天正18年([[1590年]])の[[豊臣秀吉]]の「[[奥州仕置]]」後も変化はなく、ついには天正19年([[1591年]])1月、南部氏の正月参賀を拒絶し、同年3月に5千人の兵力をもって挙兵した。([[九戸党の乱]])
 
もともと南部家の精鋭であった九戸勢は強く、更に南部信直は、家中の争いでは勝利しても恩賞はないと考える家臣の日和見もあり苦戦する。そしてとうとう自力での九戸政実討伐を諦めて秀吉に使者を送り、九戸討伐を要請するに至る。秀吉の命令に従い[[豊臣秀次]]を総大将とし[[蒲生氏郷]]や[[浅野長政]]、[[石田三成]]を主力とする九戸討伐軍が奥州への進軍を開始しさらに[[小野寺義道]]・[[戸沢政盛]]・[[秋田実季]]・[[大浦為信]]が参陣し、九戸討伐軍の兵力は6万人を上回った。